3.16.2018

末井昭
自殺した息子に対して加害者であるという意識を持ち続ける映画監督 原一男インタビュー

『自殺』で自身の半生を丸裸でひょうひょうと綴った末井昭さんが、自殺に関係するさまざまな人と出会い、いろんな場所を訪れながら、人間と自殺についてぐるぐる考えてゆく、そんな書籍を制作中です。今回は、23年ぶりの新作ドキュメンタリー映画『ニッポン国VS泉南石綿村』を公開中の映画監督・原一男さんとのお話を公開します。息子さんが自殺された原一男さんとの自殺の話。ぜひどうぞ。(編集部)

原一男さんは元々は写真家志望でした。一九六九年に障害児をテーマにした「ばかにすンな」という写真展を銀座ニコンサロンで開催したとき、それを観に来た小林佐智子さんと出会います。その後、小林さんの提案で映画をつくり始め、原さんの彼女だった武田美由紀さんもそれに参加します。一九七二年、最初の映画『さようならCP』が完成すると同時に、小林佐智子さんと「疾走プロダクション」を設立し、小林さんは映画と私生活両方のパートナーとなります。

『さようならCP』は、重度の障害者は町に出られなかった時代に、脳性麻痺者たちが街頭で不自由な体を積極的に人目に晒していく映画です。観ている自分が障害者をどう見ているかを問われる映画であるとともに、観終わると心が解放されている不思議な映画でした。

その二年後に公開する『極私的エロス 恋歌1974』は、二人の女性の自力出産の映画です。原さんの元恋人の武田美由紀さんが、原さんのアパートで自力出産し、それに続いて、小林佐智子さんも自力出産します。前彼女と現彼女が同じ部屋で自力出産し、それを撮るという、なんとも変わったショッキングな映画です。画面いっぱいに開かれた股間から子供の頭が出てくるところは、どんな映画よりも迫力ある感動的なシーンです。

この映画が話題になって、原一男の名が世に知られるようになります。僕はこの映画をリアルタイムで観ていないのですが、公開当時はどこの会場も満員だったそうで、四谷公会堂では大島渚監督も入場者の列に並んでいたそうです。

その後、五年かけて完成した、奥崎謙三を追ったドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』(一九八七年)が大ヒットします。原一男の名前をこの映画で知った人も多いのではないでしょうか。

奥崎謙三さんという人は、神戸のバッテリー屋さんなのですが、天皇の戦争責任を追求する過激なアナーキストでもあります。僕はこの映画が公開される十五年前、奥崎謙三さんが書いた本『ヤマザキ天皇を撃て!』(三一書房)を読んでファンになりました。

奥崎さんは、一九六九年の皇居一般参賀のときに、天皇に向けてゴムパチンコでパチンコ玉を三発射って捕まった人です。『ヤマザキ天皇を撃て!』は、そのパチンコ事件の法廷で奥崎さんが陳述するために獄中で書いた陳述草稿で、自分はなぜパチンコ玉を天皇に向けて射ったのか、天皇の名で召集されて戦争に行った自分たち日本兵がどんなひどい目にあったか、その責任は誰にあるのか、など詳細に書いた真面目で過激な本でした。ちなみに奥崎さんは、このパチンコ事件の前に不動産業者を刺殺して、大阪刑務所に十年間服役していた殺人者でもあります。

『ゆきゆきて、神軍』は、戦争中、奥崎さんが所属していた隊で起きた処刑事件の真相を解き明かすことを目的とし、処刑(その人肉を食べるため)に関与した元隊員たちを奥崎さん自身が探して追い詰めて、ときには相手に殴りかかったり、ときには相手から首を絞められたり、奥崎さん自身がヤラセをやったり、ドキュメンタリーの定石を崩すような、虚実入り混じった過激で面白い映画でした。

原監督の最新作は『ニッポン国VS泉南石綿村』(二〇一八年三月一〇日公開)で、八年間に渡る泉南アスベスト被害者の裁判闘争を記録したドキュメンタリー映画です。撮影に八年、編集に二年かかった大作で、上映時間も三時間三十五分という長尺なので、覚悟を決めて試写を観に行きました。ところが観ているうちに、だんだん泉南の人たちが知り合いのようになってきて、エンドロールになると「えっ、もう終わってしまうの?」という気持ちになったのでした。

原さんは映画のパンフレットに『権力者に抗う牙など、どこを探してもありはしない。そんな骨抜きにされた、平成という時代に生きるニッポン国の民衆の自画像として描いた作品である』と書いています。その言葉通り、政治家はもとより、骨抜きにされてしまった自分自身に対しても怒りが沸いてくる、心がざわざわする映画でした。

原さんとは以前、ご自身の本『ドキュメンタリーは格闘技である』(筑摩書房)の発刊記念トークイベントに呼ばれ、一度だけ対談したことがあります。

お会いする前は、原さんに対して過激な人というイメージを持っていたのですが、「私ね、奥崎さんと同じような人ではないかと思われるんですね。ニコニコ笑いながら、原で~す、なんて登場すると失望されるんですよ。奥崎さんと同じキャラだったらあんな映画つくれないですよ」と話す原さんは、とても柔軟な感じで、人の中にすっと入っていくワザがあるように思いました。僕がそう言うと、原さんは「ワザじゃありません。面白い人、そのキャラクターに惹かれるんですよ。それで相手の懐に飛び込んでいくんです」とおっしゃっていました。

今回、原さんとお話するテーマは、映画ではなくて自殺です。映画のことが頭から離れない原さんですから、もちろん映画の話も出てきます。

原さんは息子さんを自殺で亡くしています。そのこと知ったのは、柳美里さんの文庫本『自殺』(文春文庫)に書かれた解説文でした。原さんは、息子さんが自殺したときのことを次のように書いています。

映画の地方ロケを終えて久しぶりに帰ってきた。夕方だった。家には十五歳の娘と十三歳の息子がいた。パートナーは仕事で外出していて、それは珍しいことでもなかった。二人はテレビアニメを見ていた。「ただいま」「お帰り」というあいさつの後、「あれ、遠野は今日、稽古日だろ? 行っておいで」と続けた。遠野という名前はパートナーが付けた。私は息子に剣道を習わせていた。とりたてて不満そうな顔をしたわけでもなく、ごく素直に「はい」と答えて道具一式を背負って出かけた。

私は、近くに借りている事務所に向かった。自宅のアパートから歩いて五分の距離だ。ドアを開けて驚いた。ついさっき出かけたはずの息子がいるではないか(パートナーが鍵を持たせていたから出入りは自由だった)。お菓子を食べながらテレビアニメを見ていた。私は逆上した。裏切られた、あるいは、虚仮にされた、と思ったはずだ。一気にカーッとなった私は「何やってるんだ!」と大声で怒鳴りつけ、息子の頬を殴った。かなり強く。殴った瞬間の怯えた息子の表情が、今でも目をつぶれば脳裏に浮かぶ。わーっと泣き出して、道具をかつぎ飛び出していった。

私の方は、息子が道場に行ったとばかり思っていて、逆上した気分もすぐ冷めて仕事にとりかかったのだが、事務所を飛び出した後、息子は目と鼻の先にある高層アパートに住む同級生を訪ねたが留守、その直後に、飛び降りてしまったのだった。



突き放してしまうことが息子に対する基本的態度だった

息子さんの遺体を最初に見つけたのは、どなただったんですか。

ビルから飛び降りて亡くなったのは、まだ日がある時間です。警察から電話がかかってきて、私たちが遺体安置室に連れて行かれたのが夜の十二時近かったんです。ということは、四時間近く発見されなかったんじゃないかと。その十階建てぐらいの都営アパートで、そこの住人の人がふっと下を見たら、「何かあそこに」ということで気がついたという話なんですよ。

飛び降りる瞬間って怖いですよね。よくやったというか。

ほんとなんですよ。それだけカーッとなってたのかしらって、ときどきうちのカミさんと話をするんですけどね。飛び降りて地面に着くまでに何秒かあるでしょう。

十階ぐらいだと三秒ぐらいはありますね。

その三秒間、何を思ってたんだろうなって思うんですけど。

聞くところによると、飛び降りるその何秒間かの途中で気を失うんだそうですね。ほんとか嘘かわかりませんが。だから地面に着地したときはもう意識はないんだよって聞いて、へーそういうもんかなと思って。

息子さんの自殺のことは、原さんが殴ったことが原因だと書かれていますが、確かにそれが引き金みたいになっているかもしれませんけど、何か他に下地があるんじゃないかと思うんですけど。

なかなか難しいんですよ。私のカミさんと、ときどき「なんで死んだんだろうね」って話をするときがあるでしょう。そのときに知ったんですが、中学校に入った年かな、中学校の担任の先生に嫌われていたそうなんです。それで先生に対して反抗するみたいなことがあって、なかなかそういうことは親にも言いにくくて、遠野が一人で抱えてたんじゃないかなっていうのが、カミさんが言うことなんですね。

そのことに対して、きちんと遠野の言い分を聞いてあげて、なんとかしてあげるということをしなかったせいかなあっていうふうに、ときどき彼女は言うんですね。それを聞いて、私はまったく知らなかったもんだから、もうびっくりして。

そういう学校の話とか、遠野くんと会話はなかったんですか。

遠野が自殺したのは、熊井啓という監督の井上靖の「本覚坊遺文」という短編小説の映画化で、『千利休』というタイトルになりましたけど、その撮影の期間中の出来事なんですよ。

僕らの仕事は、いったん撮影に入っちゃうと、頭の中はそのことだけでいっぱいでしょ。私はそのとき、監督補とクレジットされていますけど、スケジュールを担ってたもんだから、そのことでいっぱいだったんです。スケジュールによって予算がオーバーしたりしなかったりとか、決まっている撮影期間を守れるかどうかとか、ものすごく神経使うんですね。

そういうふうに、人の現場で働いているときはその作品のことで目一杯ですし、その合間は自分たちの映画の制作をやってるわけじゃないですか。夫婦で一緒にやってるもんだから、たとえば地方で上映があるってときなどは、二人で出かけて行くじゃないですか。そのとき、お姉ちゃんと弟にお金を渡して、これでおかずを買って食べなさいよってなもんですよね。そういうふうに何日かうちを留守にするっていうのは、常態になっていたんですよね。

だから、子供のために時間を空けるってことを何もしてなかったですもんね。ほんとに何か子供たちのためにしてあげたって記憶がないですもん。お前たちも自分たちでやんなさいよってことぐらいで。子供たちのために愛情を注いでやったなあって感じじゃないんですね。あとになってだいたい気がつくでしょ、そういうことって。

遠野くん、写真で見ると可愛いですね。

そうなんですよ。これは女の人によりけりだと思うんですが、母親にとっての異性、つまり息子に愛情を注ぐタイプと、同性に愛情を注ぐタイプがあるんでしょうかね、いろいろ話を聞くと。で、うちの連れ合いは、息子に愛情を注ぐタイプなんですね。二歳上に風実というお姉ちゃんがいて、遠野は弟ですが、それはもうはたで見ていても極端に態度が違うんです。それぐらい可愛がってたんですよ。だから可愛がっていたぶん、私は彼女に対して申し訳ないっていう気持ちが、どうしようもなくあるんですよね。

それで、見た目が可愛かったもんですから、役者にしたいっていうようなことを、彼女は言ってました。彼女がそういう希望を持ってるということで、子役が必要な作品があるときは、監督にオーディションをやってもらえないですかねって頼んでいたんですよ。

今村昌平の『ええじゃないか』っていう作品で、乞食の親子が出てくる場面があって、犬塚弘がお父さんで、犬塚さんが子供の手を引いて、子供が磁石を引いて歩いていると、鉄が吸いつくじゃないですか。それを売って生計を立てるという設定があって、今村さんに、うちの息子をオーディションしてやってくださいって頼んで、それはうまくいって、息子を出演させてもらったことがあるんですよ。

あ、そうですか。『ええじゃないか』を見れば、遠野くんが出てくるんですね。

出てきます。それで、遠野が大きくなって、さっき話した熊井啓作品の「本覚坊遺文」という時代劇(最終的なタイトルは『千利休』)で武将が何人か出てきて、武将の小姓役で少年が一人必要だってことになって、オーディションをやることになりまして、オーディションの準備をしてたんです。

そのオーディションに、私の息子も入れていいですかねって頼んだら、いいよってことで、オーディションを受けることになったんですよ。で、鎧を着て、ちゃんとメイクもして、オーディションって記録で必ず写真を撮るんですよね。その写真を見ると、客観的に見てもなかなかいい男じゃんって感じがするぐらいに、凛々しい感じなんですよね。

今でも引っかかるんですけど、オーディションが終わって、うちの息子が「終わったよ」って声をかけに来たんですよ。そのときに「うん、わかった、ちょっと待ってな」って言ってやればよかったものを、「うん、わかった。一人で帰れるだろう」って帰しちゃったんですね。調布の日活撮影所だったんで、調布の駅から歩いて三十分ぐらいかかるんですが、「先に帰ってな」って言っちゃったんです。

待たせてもたかだか二十分もすれば、私、作業が終わったんですね。一緒に帰ることは十分可能だったんです。あとで、仕事が終わって駅に向かって歩いている途中、「あ、しまった」と思ったんですよね。亡くなってから、そのときの場面が何度も何度も思い返されるんですよ。

今みたいに携帯でもあればね、電話できたんですけどね。

(涙を流しながら)なんであのとき、なんであのとき、ひとこと…………言ってやれなかったかなっていうのが…………なんか悔しいなっていう感じがします。

そういうときに、ひとこと優しく「一緒に帰ろう」と言ってやればいいものを、そうじゃなくて、突き放してしまうというようなことが、息子に対する基本的な態度としてずっとあったから、そのときもそのノリで、「先に帰ってな」って言ったんだろうなっていうふうに思えて仕方ないんですね。あとで気がつくんですけどね、そういうのって。



子供の成長への怯えと全共闘的価値観

お子さんとの付き合い方っていうのが、あまりかまわないというのか、そういうのがずっと積み重なっているっていうのはあったんですか。

どうでしょうかねぇ。自分の気持ちの中に、なかなか整理できないことが一つあるんですね。子供って生まれたときは可愛いじゃないですか。これはもう何ものにも代え難く可愛いと。

あぐらをかいて子供を抱いているとね、やっぱりあったかいし、腕のなかにすっぽりはまるでしょ。私、子供の頭を顎で撫でるんですよ。子供の髪の毛って、スベスベしてて気持ちいいもんだから顎で撫でたりして、とても心地よい時間があって、記憶の中でもほっこりするんです。

けど、だんだん大きくなってくるじゃないですか。育ってくるんだから当たり前の話ですけど、小学校の真ん中ぐらいになると、だんだん自我が出てきますね。そうすると、もう何年かすると中学、高校というふうになってきて、子供って必ず親に反抗するだろうなと思うわけですね、なぜだか。

自分でも説明がつかないんですけど、過剰にそのことを私が怖がってるっていう感じがあるんですよ。遠野に対して、そういう感情が小学校の真ん中ぐらいのときから少しずつ芽生えてきて、一緒に暮らしながら、ときおり、この子が大きくなったら必ず反抗してくるであろうっていう怖さが、頭の中をよぎって仕方なかったんですよ。

僕は子供がいないから、しかも、あまり子供が好きじゃないから、全然そのへんがわからないんですけど、その恐怖がずっと通奏低音みたいにあるんですか。

肉体的には必ず子供の方が優ってくる、その時に肉体的に殴り合いになるか、掴みあう喧嘩になるか、それはわからないにしても、必ず親であるこちらが負けるだろうと、そういうふうにイメージが走って行って、そのことがすごく、なんていうか、重たいんですよね。

遠野さんは反抗ってなかったんですか。

まだなかったんですよ。だけど、小学校五年、六年、中一とだんだん成長するでしょ。中一って小学校と違うのは、肉体的に大人になってくるんで、暴力というものをひしひしと感じ始めたという感触は、チラッとですけどあったような感じがしますね。

子供の反抗期って、あったほうがいいんですか。

自分のことを思うと、あったほうがよかったんじゃないかなあ。私、なかったですからね。

僕もなかったんです。反抗する相手がいないんですよ。母親は自殺していなかったし、父親はどうしようもなく情けない人だったんで、反抗にならないんです。家でゴロゴロしてるから「働け」って言ってたんですよ。そしたら弱々しい声で「なんでワシだけ働かすんじゃ~」って。「小学生じゃないか、こっちは」って(笑)。反抗しようがないですよ。

反抗って難しいですよね。息子にすれば私に殴られて、なんだこいつって、どっかで私の子供に対する付き合い方、父親に対する不満は、たぶんあったんだろうなって思うじゃないですか。私に対する反抗という形で自殺という手段を選んだっていうことになると、客観的には反抗の仕方が間違ってたっていうか、別に死ななくても反抗の仕方はあったはずですよね。

しかし、なんで俺はこんなに過剰にね、しかもわが子に対して怖がるんだろうと、自分の中でもそこだけは、ほんとわからないですよ。

原さんが過剰に息子さんの反抗に怯えるのは、何か、ちょっとヘンですよね(笑)。お姉ちゃんの風実さんに対しては全然それはないわけですよね。

お姉ちゃんに対しては、暴力的に自分がやられるというのはないです。

ただ、お姉ちゃんはお姉ちゃんで引け目があって。私、『極私的エロス 恋歌1974』っていう映画をつくったじゃないですか。あれ、私の前の彼女が、私のアパートで自力出産するじゃないですか。そのあと、私のカミさんも自分で子供を取り出すことをやりたいって言い出して、じゃあやろうって話になって、それも撮ったんですけど、結果、出産が長引いたわけですよ。

間違いなくそれが原因だと思うんですけど、呼吸のスタートが遅れたために、酸素が脳のほうにいかなくて、脳のどこか、言語を司る非常にデリケートな神経のどこかが損傷しちゃたのかなって思うんですよね。言葉の使い方がヘンなところがあるんですよ。実際いまだに続いてるんですよ。知能障害っていうほどではないんですが、やっぱり知能の発達は、他の子と比べて遅れてるなっていうのはありますね。

それは紛れもなく、私たちが映画をつくるために、出産を、前の彼女が取り上げるということを現在のカミさんが引き受けて、それが元でそうなったんだっていうことがあるもんで、娘に対して申し訳ないなっていうのがずっと続いてるんです。息子の場合と全然質が違うことなんですけどね。


男で苦労しながら死んでいった母親

末井さんはなんで子供が嫌いなんですか。本当にできなかったんですか。できないようにしてたんじゃないんでしょう。

前の奥さんは体が弱かったんで、多分つくれないだろうということで、つくらなかったんですけど、いまの奥さんは子供が欲しいって言う時期もありました。「じゃあ不妊治療でもやってみるか」ってことで始めたんですけど、遅かったのかもしれないですね。結果的にできなくて。僕自身そんなに子供は欲しくなかったから、それでよかったんですけど。いまは奥さんも「いなくてよかったね」って言ってますけど。

そうですか。もし生まれてたら変わっていたかもしれませんよね。

末井さんはお母さんが自殺したんでしょ。私は息子が自殺したでしょ。私は息子に対して、加害者という意識を持ってるんですよ。末井さんは、どっちかいうと被害者という感覚を持っても不思議はないですよね。

加害者って意識はもちろんないですけど、被害者という意識もないですね。子供の頃は恨む気持ちがあったかもしれないですけど、置いていかれたというか。父親はあまり好きじゃないんで、母親との暮らしは短かったんですけど、短かっただけ濃密というか、そのときのことがずっと残ってるって感じでいるんですけど。
原さんは、お父さんはいらっしゃらなかったんですよね。お父さんに代わるような人はいたんですか。

客観的に見ると、母親の男は何人も替わっているんですね。で、何人目かの男のことを、「カズや、頼むからお父さんと呼んでやってくれ」って頼まれたこともあって、「わかった」と言ったものの、結局ひとことも「お父さん」と呼べなかったということがありますね。

私ねえ、母親を一瞬たりとも嫌いになった場面はないんです。母親はですね、長男である私を頼るっていいますか、物理的に頼ってもなんの力にもならないですが、精神的に息子を頼りにするといったタイプの人だったんです。自分が辛いこと、ほんとに苦しかったことを、私がまだ子供だったころ、年端もいかないころの私に、結構明け透けにいろいろなことを話していたような人なんです。

私は宇部炭鉱の炭鉱町で育ったんですよね。私の種をつけた人は、これがはっきりしないんですが、大阪の坊さんだったらしいと。らしいというだけで、いまだにはっきりしません。母親はそのお妾さんだったと。で、戦争が激しくなったんで、捨てられたっていうことのようなんです。で、捨てられてしようがなくて、お姉さんを頼って宇部に帰って来たんだと。

そのころ、母親のお腹がだんだん大きくなって、宇部も空襲が激しくなって、ある日、空襲のときに私が生まれたということなんですよね。それで、私が生まれて、女手ひとつで育てるのは大変なんで、炭鉱夫と再婚したんですよね。で、妹が生まれたと。生まれて間もなく、その人が炭鉱の事故で死んじゃって。

それでまた、子供二人抱えて大変だからということで、別の炭鉱夫と結婚したと。その人の名前が原なんですよ。そのときに籍を入れたもんで、それ以降、私は原という名前を名乗っているということなんですが、その男が、性格がケチでヒステリックで暴力を振るうという、どうしようもない男という代名詞がつくくらいひどい男で、好きで結婚したわけじゃないので、お袋も相当耐えてたんです。

これは記憶にこびりついて離れないんですけど、お袋はまだ若かったし、町へ出て遊ぼうって私を誘うわけですね。町に出て何して遊ぶかというと、ビンゴかパチンコなんですよ。私はまだ、小学校の二年生か三年生ぐらいだったと思うんですが、お袋が「先に行ってて」って言うから、「じゃあ、先に行くね」ってうちを出て、しばらく行って待ってたんですよね。

しばらくして、お袋が駆けつけて来たんです。で、私の顔を見るなり、「カズちゃん、いまね、原のオヤジがね」って、「原のオヤジが嫌だ嫌だと言う私をね、押し倒してね」って話をするわけですよ。びっくりしましてね。黙って聞くしかないじゃないですか。

夏だったんですけどね、盆踊りが近かったんで、盆踊りに流す曲、「炭坑節」ですよね、それが、遠くから風に乗って流れてきたという記憶が、そのときの空気感とともに、未だに鮮明に焼きついているんですけど。

とにかく、無理やり私を押し倒してどうのこうのという話は、さすがにちょっと生々し過ぎましてね。だけども、そういう母親に対して、私は一度も、嫌悪感とか憎悪とか反抗っていう気持ちを持ったことはないんです。

女手ひとつで育て上げたというタイプじゃないんですね。いつも男がいるんですよ。長続きしないんですけど。その替わる男と私はいつも一緒にいたもんで、ときどきグチのように、お前たちを育てるために我慢して男と一緒になったと、好きでもない男と一緒になったんだよって言うんですよ。でも、その話だけは嘘だろうと思うんです。

その他にも、どうしようもない男と付き合ったことがあるんですけど、必ずしも自分が我慢して男と一緒になったって話は、まあ、私も大人になればなるほどわかりますけど、話半分だっていう感じはしますね。誰か男がいないとだめなんだな、そういうタイプの女の人だったんだろうって、そういう感じがしてますけどね。

お話を聞いて、僕も同じなんですね。僕の母親もいろんな男を家に入れて。一年ぐらいの間ですけど。

生々しい場面ってありますか。

男が来たときは、家から追い出されるんで。

もろセックスをするためにでしょ。セックスする場面なんて見ましたか。

いやいや、僕はそれは見てないですね。弟は見たらしいですけど。弟が生まれてすぐ母親が入院したので、弟はオッパイに飢えていたんですね。それで、母親が退院して家に帰って来てから、いつもオッパイに吸いついていたんですけど、男が来て「それは俺のものだ」って言ったとかで。結局弟は最後までオッパイを離さなかったものだから、母親は弟と男に片方ずつオッパイを吸わせていたらしいです(笑)。

私ね、困ったのはね、原っていう男と別れて、炭鉱が落ち目になって潰れて、隣の小野田市というところに引っ越したことがあるんですよ。そのときに、年がかなり若い男と同棲してて、この男が怠けもんというか、働くのが嫌いなタイプなんです。見た目ちょっといい男なんですけど、気分にムラがあるタイプの人でね。

土方をしてたんですけど、雨が降ると仕事にならないでしょ。生活的にも日銭で暮らしてたということもあって、気分屋さんなんで昼間喧嘩するんですね。で、私、喧嘩している場面を見てるでしょ。あとから思うと、必ず喧嘩した夜ですよ。寝てて、ふっと物音で目が覚めるんです。そしたらセックスしてるんですよ。

喧嘩で気持ちが高ぶってるんですかね。

おそらくね。もう一つは、私の判断ですが、喧嘩してる状態じゃ困ると。母親からすれば、働いてもらわなきゃいけない。機嫌を直すってこともあったんじゃないかなって、そっちの解釈が大きいんですけど。

で、一間なんですよ、借りてる部屋が。そこで、布団並べて、親の隣りに長男の私、そして妹と寝てるじゃないですか。するとそばでやってるわけ。そのときすごく困るんですね。目が覚めちゃったから、困ったなあと思って。困ったなあ、どうしたらいいんだろう、寝返り打ったり、うーんとかなんとか言ったり、気がついてもらおうと思って必死に演技して(笑)。さすがに向こうも気がついて、ハッとして、そして止まるんですよ。何回もそういうことがあるんです。そういう場面ってありますか(笑)。

いやあ、僕、母親と一緒に暮らしたのは一年間ぐらいしかないんですよ。それまで母親は入院してましたから。肺結核ですから、見舞いにも行かないし。退院して、男がうちに出入るするようになってから、よくわからないけど何かしてるんだろうと。何か感じるものがあるわけですよ。だから早くマセたかもしれませんね。母親が便所に行くとついて行って、オシッコするのを見てたりとか。

な、なんですか?

田舎の便所は小屋みたいになっていて、母屋から離れたところにあるんです。で、簡単な戸がついているんですけど、戸の下が十センチほど開いているわけです。そこから見ると、ちょうど母親の股の部分が見えるんですね。それでよく覗いてたんです。

あ、あ、そうですか。そのことが自分のオナニーにつながってますか。

それはないですね。

ないですか。

どうですか? 母親に対して。僕は、ずっと母親のことを引っ張っているような気がするんですけど。

ねぇ。私も引っ張ってる感じがありますね。私がまだ子供のころ、炭鉱ですから、炭鉱の鉱員たちの公衆浴場があるでしょ。そのお風呂の女風呂に、結構長い間入ってたんですよ。これね、夢かどうかわかりませんが、お袋が体洗ってますよね、そのそばで私も体洗ってますね、で、お袋の性器にね、指を突っ込んだっていう記憶があるんですよ。夢か事実かわからないんですけど。そのイメージが残ってるんですよ。もうちょっと続きがあって、「何やってんのよ」って手をパチンと叩かれたとこまで続いてるんですよね。

あと、母親が一番最後に付き合った男っていうのが年下の男でね、自衛隊員だったんですよね。結構長く付き合ったんですよ。その人と一応籍は入れましたからね。

ところがやっぱり若いものだから、若い女ができたんですね。で、若い女に会いに行くわけですよ、男は。そこで嫉妬にかられた母親から、グチを聞かされるんですね。なんか可哀想だなあ、不憫だなあと思って。でもまあ、若い男と一緒になったんだから、しようがないんじゃないのって。私、男に対しても同情がいくとこもあるんで、必ずしもお袋だけ味方するというわけにはいかなかったんですけどね。

でも、最後の最後まで男で苦労したなあって、もちろん子育てもそうなんでしょうけど、男で苦労しながら、最後の最後まで、あんまり幸せな人生って言えない状態で死んでいったんだなあっていう感じがして仕方ないですね。


憎悪の目を向けられて萎縮してしまった

まだ息子さんの自殺からそれほど日が経っていないころ、小林さんがお骨箱から出した骨を触っていると、原さんがカメラを回し始めたそうです。そのとき小林さんから「そんなにすぐカメラを回すなんて発想がよくできるね」と言われたそうです。

息子さんの自殺が動機になって、自殺の映画を撮ろうとしていた原さんですが、日々の仕事に追われてなかなかきっかけが掴めないでいたようです。

自殺の映画は、撮り始めていたんですか。

撮り始めてたんです、遠野の自殺からだいぶ経ってからですけど。

何から撮り始めたかというと、今はもうやってらっしゃらないんですかね、上智大学でデーケンという教授(アルフォンス・デーケン教授。死生学を研究している)が、自殺をされた人たちを対象に、そういう人たちにとっての癒しみたいな講座をずっとやってらっしゃったんです。そこに小林と行ったことがあるんですね。

私は、自殺をされた家族の方の気持ちを聞いてみたいという思いが非常に強くて、デーケン教授の講座で、私たちと同じように自分の子供に自殺された夫婦を、今は離婚されているので元夫婦を、紹介されたか知り合ったかしたんです。

亡くなったのは二人の娘さんのお姉さんのほうだったんですが、それが原因で離婚して、旦那さんのほうは再婚していて、すでにお子さんがいました。奥さんのほうは再婚してなくて、残ったほうの娘さんと一緒に暮らしている、そういうケースなんです。

私も子供に自殺された親なので、自殺をされた親同士がお互いに、そのことについての気持ちを率直に話し合うということを目標に撮影させてもらいたいって頼んだら、OKしてくれたんですよ。

それで、まず旦那さんのほうからカメラを回してインタビューしたんですが、かいつまんで言いますと、亡くなったお姉ちゃんが、何か「死にたい、死にたい」と言っていたと、それに対して、お母さんが気の強いタイプの人で、「死にたい、死にたい」という人に死んだ試しがないと、かなり強く突っ放したそうなんです。

旦那さんが言うには、「じゃあ」ってことでお姉さんが死んじゃったと、こういう話なんですよ。だから、娘が死んじゃったのは奥さんのせいであると、ずっと思ってらっしゃるんですね。

今度は奥さんのほうにインタビューしに行ったんですよ。で、旦那さんとしてはそういうふうに思ってらっしゃると、しかし、本当のところはどうなんでしょうというようなことを、カメラを回しながら聞こうとしたんですね。

そしたら奥さんは、そんなことはないというような話をされて、じゃあ、もっと詳しく、と思っているところにですね、その、一緒に暮らしてる娘さんがすぐそばにいて、ものすごくきつい目で私たちを睨みつけているわけですよ。なんで、他人のあなた方にそんなことを話さなきゃいけないのかと、明らかに憎悪というか殺意というか、そういう目を向けられて、もう負けたんですね。萎縮してしまって、まともにインタビューできなかったんじゃないかなあ。それがショックで中断です。

それは何年ぐらい前ですか。

息子が死んで十年ぐらいのことじゃないでしょうか。その衝撃からいまだに立ち直れないというか、そのことを克服できずに、あっという間に二十年近く過ぎてしまったと、そんな感じがします。

二十年前だと、自殺という言葉がマスコミにあまり出てなくて、自殺を表に出さないというか、わりと隠すということがあったと思うんです。いまは自殺という言葉はマスコミでも平気で使われるし、自殺防止活動なんかも盛んになっていますし、二十年前と社会状況が変わってきてますから、話しやすくなっているとは思うんですね。もう一度チャレンジしてみてはいかがですか。

やっぱりカメラを回すというのは、何かきっかけがないとね。弾みみたいなものがないと、なかなか動き出せないんですよね。ときどきふっと思い出すんですね。やらなくてはいけないこととして、これがまだ残っているんだなって。

その殺意を持った目で睨んでいた娘さんの映像も撮られているんですか。

もちろんつくり手としては、撮っているはずなんですが、もうね、あの憎悪に満ちた目は、ちょっと跳ね返せなかったですね。人の不幸って、相当強いエネルギーを持たないと負けて撮れないですよね。

今度公開する『ニッポン国VS泉南石綿村』だって、アスベストの被害にあって死んでいく人を撮った映画でしょ。アスベストにやられると、同じ角度で病気がだんだん重くなるんじゃなくて、亡くなる前はカーブがきつくなって肉体的に相当きついんですよ。当然私たちは、呼吸が困難になっていく最後の何日かは相当辛いって聞いてるわけですから、その状況を撮らなきゃいけないって思うじゃないですか。だから、もしかしたらっていう人を探すわけですよ。その、もしかしたら亡くなるという人を探す行為そのものが、すごく負い目なんですよね。一体自分たちは何をやってるんだろうと。

カメラを向けられる側としては、家族が苦しんでいるところを、他人に見せたくないっていう意識が働くわけですよね。みなさん普通の人たちなんで。死んでいく様が残酷であるからこそ、映像として撮らせるべきであるっていう意識を持ってない人たちなんですね。やっぱり、忍びないというか。それを跳ね返してまで、何がなんでもという迫力は持てなかった、最後まで。

病気で苦しんでるというシーンは二つかな。弁護士さんがね、裁判の場で、本当にこんなふうに苦しんで死んでいくんだよってことを裁判官に見せたいということで、強引にその人が亡くなる四、五日前にカメラを持ち込んで回した映像があるんですよ。それを、僕らは借りて映画の中に使ったんですけど。

もう一つはね、取材に来たって言ったら、「どうぞ」って迎え入れてくれた人がいたんです。本当に優しい人で、あるとき「私これからお風呂に入るのよ」って言うんです。お風呂に入ると必ず湯気でむせるんだそうです。で、ニコニコ笑いながら「原さん、そういうところ撮りたいんやろ」って。「あ、ぜひ、ぜひ」ってお願いして、「撮っていいよ」って言ってもらったので、そのお風呂場にカメラを持って入って、家庭のお風呂場って狭いじゃないですか、その壁に体を押しつけて。その人は入った途端にゴホゴホしてるんですよ、それをジーッと撮影するんです。これはきつかったですけど、回すしかないですから。慰めの言葉を言ってもほとんど意味がないわけだし、カメラを止めて出ていくとか、そんなことしても意味がないですし、結構長い秒数を回して、きつかったなあという思いがあります。

それだけなんです。家族が苦しんで死んでいったという人のインタビューはあるんですけど、実際に苦しんでる映像は撮れなかったです。そのときにね、人の不幸を撮るっていうのは、ヤワな心じゃ撮れないなって思い知らされました。

でもまあ、水俣も十三年撮られてるわけでしょう。こちらも不幸なわけですよね。

それはそうなんです。人の不幸を、なんかこう嗅ぎ分けて、よくハイエナのようにって言いますけど、自分でもそう思います。なんで人の不幸ばっかり追っかけようとするんだろうって。みんなから喜ばれる映画をつくりたい、幸せな映画をつくりたいって心の中では思っているんですが、ダメですね(笑)。

どうなんでしょう。それはいけないことじゃないと思うし、映画としてみんなに観てもらったほうがいいと思いますけど。単に人の不幸を突っついているわけじゃないんですから。

そうなんですけど、実際の場に立たされるとなんか負けますよ、やっぱり。よっぽど強い信念がないと。ただ、正義という言葉に抵抗を持つ世代なものですから、正義感とか人のためにとかいう言葉に対してコンプレックスもあり、偏見もあり、いつも葛藤があるんですよ。で、そこを越えていくエネルギーが自分の中にあるのかというと、いつも何かややこしい気持ちの中でやっているようなものですもんね。


死ぬということも含めて自由であるということ

原さんは、遠野くんの自殺の落とし前を映画でつけるとおっしゃっていましたね。落とし前っていうのは、どういうことの落とし前なんでしょう。

遠野が亡くなって、なんで遠野が自殺をしてしまうのか、なんでこうなったんだろうって、ずっと考えるじゃないですか、今も考えてるわけですけど。まず、自殺をした子供の世界と、自殺をされた大人の世界があって、子供は親に反抗することで成長していくわけですから、反抗的な態度をとったときに冷静にその中身を汲み取ってやらなければならないのですが、得てして親の側は感情的になってしまう。カーッとなってしまうんですね。まさに私の場合がそうだったわけですが。

親って、子供に反抗されると、親のメンツ、大人のメンツ、自分のつちかってきた価値観が傷つけられるとか、親自身の生き方がカーッとなる一瞬に凝縮して現れてしまうんですね。そして親の側としては、私の息子に対する過剰な怯えというものが、一つの謎としてあると。

もう一つはね、私たち七〇年に青春時代だったものですから、全共闘的価値観ってすごく大きいんですよね。それはよくも働いているのだろうけど、子と親との関係において、その価値観っていうものが、間違ってたんじゃなかろうかと思えて仕方がないことがあるんですね。

どういうことかっていうと、私が全共闘世代から学んだことというのは、いつも自分の感情に正直であるべきだってことですね。怒ったときには怒っているということを百パーセント相手に出す、悲しんだら、悲しんでいるということを百パーセント出す、いつも全身で相手に自分の感情をぶつけるべきであると。それが人間として一番誠実で正しい付き合い方なんだ、というふうな価値観をインプットされたと思ってるんですよ。

それは、相手によってエネルギーを出し惜しみしたりとか、ちょっと相手がこうだから減らすということをしては、むしろ相手に対して失礼であるという価値観。ほんとに理屈なんですけど、そう思ってたんですよね。

だから、子供に対しての付き合い方も、怒るときは目一杯怒ると。本当に怒るんですよね、かなりきつく。それで、子供が可愛いと思うときは、本当に猫っ可愛がりというか、ぎゅーっと抱きしめてあげるというようなね。

でも、それっていったいどういうことだろうかって。子供の側からすればね、あまりにも落差が激しくて、なんか面食らっちゃうだろうって。だから相手が子供の場合は、こちら側の気持ちを百パーセント出すんじゃなくて、コントロールすべきじゃなかったんだろうかって考えるようになったんですね、亡くなってから。で、そのことがすごく気になったもので、自分と同じようなシチュエーションで子供を亡くした親に会って、話をしてみたいと思ったのは、親が持ってる子育てに関する価値観を明らかにすることだったんです。

気がつかずに子供を追い詰めている親がたくさんいる気がしますけどね。自殺した子供側の世界とはどういうことなんですか。

死んだ子に対して、お前死んだのは間違ってたということは、言わないでおこうねって、うちの彼女と話をするんですよ。

死ぬ瞬間って絶対にわからないでしょう。浦山桐郎という映画監督がいて、私が先生だと思っている尊敬する人なんですけど、自分を産んだお母さんが産褥熱で死んでるんです。それで、お父さんはお母さんの妹さんと再婚してるんですけど、そのお父さんが、浦山さんが高校生のときに自殺してるんです。

浦山さんという人は実母に対する憧れ、それと継母が非常に美しかった人なんで、継母に対する愛情と、お父さんが死んだ本当の原因がわからないということと、ずっとその思いを持っていた人で、それを小出しに映画の中で使ってるんです、場面にして。

その浦山さんが、私が息子のことを話したときに、「ほんとのことはわからない」って言ったんですね。自殺する人の心境、今まさに死なんとするその人は何を考えているのか、絶対わからないんだと。そのことはすごく残ってまして、そういう意味で、息子の自殺を巡って映画をつくるときに、自殺って本当のことはわからないってことを前提にして、何がわからないのか、どうわからないのか、なおかつわかろうとするっていうことを、どういうふうにすれば映画として成立するかって考えたわけですね。

遠野の死に関して、私が怒ったからその仕返しでカーッとなって死んじゃったというイメージでずっと語っていますけど、そういう捉え方って、なんていうか、狭く捉えているっていう感じがあるんですね。

子供がなぜ死のうとしたかっていうことは、それは私に対しての面当てっていうのは間違いなくある。それはそうなんだけど、自殺の引き金になったことはそれだけじゃない、もっと他に何かあるんじゃないだろうかと、うちの彼女とときどき話をするんですが、引き金になったベースみたいなものは深く追求しないといけないなって。学校に対して、先生から嫌われていたっていう話を、単に嫌われていたということだけで済ますのではなくて、嫌われていたその先もずっと調べて、カメラを回しながら明らかにしていくということを考えていたんですね。

作品をつくることにおいて、キーワードってあるじゃないですか。その一番大事なキーワードは、たぶん自由っていうことだろうって思っているんですよ。今村昌平がよく言ってたんですけど、人間というのは欲望によって突き動かされていると。欲望っていうのが、つまり、生きるということのエネルギーの元であると。

しかしその欲望は、属している社会のコントロールを絶対受けますよね。だから、自分の欲望を追及するというエネルギーの方向があって、必ずそれに対して、社会っていうかシステムのコントロール、つまり抑圧が働いて、それを意識した瞬間に、それを跳ねのけようとしますよね。で、跳ねのけたときに、自由っていう感覚が自分のものになるっていう基本的な考え方があるんですね。

たとえば、自殺はよくないというようなことに対して、それをひとつの抑圧っていうふうに考えたときに、それぞれの子供にはそれぞれの欲求があって生きているわけですから、それを、なんていいますか、抑圧する方向じゃなくて、死というものをもっと自由に捉え返さないといけないんじゃないか。理屈っぽい話なんですけど。

死んだ遠野を責めるとかじゃなくて、もっと自由な捉え方ってないのかしらねって。


止まっている記憶と家族の中で変わったこと

何年前だろう、五、六年前ですか。あるカウンセラーの人とちょっと知り合いになってね。遠野が亡くなったときから、記憶が止まってるでしょ。記憶のなかでは成長しないじゃないですか。もし生きていたらいま何歳になってるか、成長した息子をイメージして、その息子と対話をしてみたらって、言われたことがあるんです。

それはなんのためにするんですか。

いつまでも、自分が子供を死なせてしまったということがあるからです。でもダメですね、できないね。

息子が亡くなって、私も頻繁に思い出すでしょう。その思い出す頻度も、すこーしづつ、間が開くようになりますね。

で、確かに間は開くんですが、思い出さなくなったわけじゃない。私、大阪の大学で授業をやってるもんだから、車で往復することがあるんですよ。夜、授業が終わって、車を運転しながら高速道路を真っ暗な中運転していると、ふっと息子のことを思い出すことがあるんです。もう、そのときなんかたまりませんね。ひとりで泣きながら運転してます。

息子の死に対して、自分が死なせてしまったという罪悪感が消えていくことってないなあって感じがして、でも、なくなったらよくないって感じもあるので、そのことが苦しいというわけじゃないんですけどね。そういうかたちで思い出すことがせめて息子とつながっていることが実感できる、少ない貴重な時間だなあって感じがあります。

いいことだと思いますね。ずっとその気持ちがあるってことがですね。その気持ちを消さないほうがいいですよね。

消さないほうがいい、消しちゃいけないっていうか、消えるわけないよなって。やっぱり、一人が命を断ったわけですからね。

それと、もう一つ辛いのは、私もうちの彼女も、自分が自殺したいと思う気持ちは一度もなかったんですね。その彼女が、息子が死んでお葬式を済ませて、一週間かそこらぐらいだったと思うんですけどね、(涙を流しながら)……叶えられるならね、自分が死んで息子が生き返るのならね、自分が死んでもいいと言ったことがあるんですよ。

彼女も実は、妾の子みたいな状況で育っていて、生きてるときに実の父親に会ったことがない人なんですよね。それで、係累がない人なんです。だから息子という係累だけがね、唯一この世に確かなものとしてあるんだっていうふうに思っていた人なんです。

息子の自殺ということは、うちの彼女の息子に対する思いも一緒に壊してしまったんだなあと思うと、なんかもう、そこに思いが至るといたたまれないもんね……。そういうものを最後まで、くたばるまで持ち続けていくしかないなあって思ってます。

遠野くんが自殺されて、家族の中で変わったこととかありますか。

遠野が亡くなる前は、子供の勉強を見てやるのは、彼女の仕事みたいな感じだったんですよ。台所に机があって、そこで宿題とか勉強の面倒を見てやるじゃないですか。そうすると、やっぱり、頭の回転がパパッと働くような子じゃないので、だんだんだんだん彼女がイライラしてくるんですよね。

普段は絶対怒りを表に出すようなタイプじゃないんですよ。辛抱強い人だし優しいんですけど、なぜか子供に対して、勉強の相手をするとき、特にお姉ちゃんのほうがそういうふうにちょっと遅れ気味だったので、「こんな簡単なことがどうしてわからないのよ」って、すぐキーッとなるっていう感じだったんです。

私もそばで見ていて、それがかなり、普通にいうところの一般よりもかなり激しいなっていう感じがあって、気にはなってたんですけど、そのことに対してもう少し穏やかにしようよとか話したことはないんですよね。私も似たようなところがあって、人のことは責められないという感じで、ただ見てたんですよ。

で、遠野が亡くなったあと、彼女がですね、自分の子供に対する接し方、態度が間違っていたんだって、しょっちゅう言いますけどね。それで、もうコロッと態度が変わりました。変えたんでしょう。とにかく優しく、そういうことでイライラして怒るってことはなくなりました。

で、娘のほうも楽になったんでしょうかね。母親に対して楽になったような感じで、付き合いが入れ替わったんですね。息子が死んでからですよね。

遅れてるということでは、間違いなく遅れているんですけど、ときどき遅れてるっていうやり取りがおかしくて、笑っちゃう場面がいくつもあるんですよ。

たとえば、あるとき家族で電車に乗っていたときのことですけど、子供たちが車窓から流れる風景を見ていたんです。すると風実が「あ、人間がいる」って声をあげたんです。ん? 何か変だなと一瞬考えたんですけど、すぐわかって、「ミイちゃん、こういうときは〝あ、ひとがいる〟って言うんだよ」って、みんなで大笑いしたことがありました。

それと、これは小林から聞いた話ですけど、電話がかかってきて、「もしもし、小林ですが」って言うから、「どちらの小林さんですか?」って聞いたらしいんです。そしたら、「小林風美です」って。「親子だから、こういうときは、〝風美です〟って言えばいいんだよ」って言って大笑いしたらしいんです。こういうふうに、何か調子が狂っちゃう言い方をするんですね。このおかしさ、家族だけのことなのか他人に理解してもらえるのかどうかわからないですけどね。こういう娘を自分の子供として授かったのも何か不思議だねって。


写真家の立木義浩さんが、著名人親子のポートレートを二年半かけて撮り続けた、『親と子の情景』(毎日新聞社)という写真集があります。百組の親子の写真が入っていて、その中に原さんと風実さんの写真が入っています。それぞれ写真とともに、子供側から親に向けたメッセージが入っているのですが、風実さんのメッセージを読むと、親からほったらかしにされたり、弟が自殺したりしたのに、まったく屈折してなくて素直に両親のことを心配する気持ちが感じ取れます。

映画の初日(著者注・井上光晴をドキュメントした『全身小説家』の公開初日)、映画館に行ってびっくりしました。道に行列ができていて、こんなにお客さんが来ると思ってなかったから。お父さんとお母さんもうれしそうな顔で、本当によかった……。それまでは、心配で心配で、2人とも夜あんまり寝てなかったんです。

映画、お父さんとお母さんが、いつも2人で作ってるんです。家にいないことが多いから、私はいつも留守番。テレビっ子でした。

だから、出来上がった映画を見ていても、このシーンの時は大変そうだったな、とか、何度も九州に通っていたな、とか、そんなことが頭に浮かんでくるんです。

忙しいけど、お父さんは、小学生のころから弟と私を山登りに連れて行ってくれました。ダジャレなんかを言いながら登るんです。

私が中学3年の時、弟は亡くなりました。それからは、夕食を必ず3人で食べるようにするなど、両親は私に気をつかって、できるだけ一緒にいてくれます。逆に、私が頼りにされていることも、なんとなく感じています。

お父さんもお母さんも頑張り屋だから、何があっても、この仕事を続けると思います。(中略)仕事をやめてほしいと思ったことはないけれど、体が心配です。(風実)


ガンジス河に沿って歩いているとき遠野の霊に出会う

原さんが、雑誌『群像』に書いていた随筆を読んで驚きました。「ガンジス源流、息子の霊に出逢う」というその随筆には、遠野くんの霊と会ったことが書かれています。

霊がいるかいないかということでは、僕はいるというほうに針が振れているので驚きませんが、霊がいるとしても出てくるのは自分が住んでいる近く、あるいはお墓の近くじゃないかと思っていました。ところが、原さんが東野くんの霊と会うのはなんとインドです。つまり、霊には距離というものがないということです。ということは、霊は自分の中に住んでいるものなのかなとか、いろいろ考えさせられました。

原さんが遠野くんの霊と会ったのは、一度目がベナレスの町にいるの牛の目の中、二度目はガンジス川の源流だそうです。

まずは『群像』に書かれた随筆の、牛と目が会うところの引用です。

遠野の死から5年が過ぎた時、熊井啓監督作品『深い河』のインドロケにスタッフとして参加した。インド最大の聖地・ベナレスに1ヵ月の長期ロケ。ある日、街を歩いていた。アチコチで牛が闊歩していた。牛はシバ神の乗り物ということでインドでは大切にされている。だから街中の交通の激しいところに我が物顔でいても誰からも追われることはない。そんな牛の大きな目と私の目が、ふと合った。その瞬間、死んだ遠野のことが脳裏をよぎった。束の間、ホントに一瞬。大げさに言うと電流が体を貫いた感じ。ありえないことだが、牛の目の中に遠野がいた!


『群像』の随筆で「牛の目の中に遠野がいた!」と書かれていますが、それは子供のときのままの遠野くんですか。

そのときはね、具体的な子供の、何歳ごろのイメージじゃないんですよ。とにかく、遠野という存在、命そのもののことをパ――ッとなんか。

あ、ビジュアル的に見えたわけじゃなくて、感じるっていうことですか。

そうです、そうです。遠野という命に対して、非常に強く、あ、遠野、遠野、っていうような、そういう感じだったんです。具体的な映像とかではなくて。

それは、こう、パワー注入みたいな感じですか。

パワーじゃないですね(笑)。そこにいるという感じで。その記憶が残っていたので、そのあと、NHKの『世界わが心の旅』というテレビ番組から出演依頼が来たとき、どこに行ってもいいって言うから、じゃあインドに行きたいって、ガンジスの源流へ行ったんです。日常生活の中で息子のことを思い返す頻度が少なくなっていたものですから、旅をすれば遠野のことだけ思い起こしていられるなあっていう動機で、インドに行きたいって言ったんですけどね。

それで、出発点を、牛と出会ったベナレスがいいって言ったんですけど、ベナレスからガンジスの源流、ヒマラヤの入り口までは何百キロかあるんです。テレビ局としてはそこまで時間が取れないから、ガンジスの源流の入り口に当たるハリドワールからにしましょうって。がっくりしたんですけど、まあいいやと思って。せいぜい一週間ぐらいのロケ期間なんですよ。

で、旅の真ん中へんでしたが、かなり急流といっていいほどドーッと音がして流れているガンジスのそばを歩いているときなんですよね。昼間でした。かなり田舎なんで、人は一人もいなかった。とにかく私はスタスタスタスタ、無心という言葉がありますけど、そのときは多分ね、無心の状態だったと思うんです。とにかく歩いていたんですよ。

そしたら、うしろで何か気配を感じたんです。あっ、と思って振り向いて見たら、誰もいない。で、また歩き出したんですけど、また気配がするんですよ。で、また振り向いたけどいない。で、また歩いているうちに、あれっ、と思ったんですよ。もしかしたら遠野の霊じゃないかって。で、「遠野」って、声を出して振り向くといないんですけど、三度目くらいに振り向いたときにね、間違いなくそこに霊がいるっていうふうに感じられたんですよ、本当に。

で、遠野がそこにいるんだって感じたら泣けてね、多分「遠野」って名前は口に出したと思うんです。「遠野、遠野」って二、三回。それ以上言葉は何も出ないんですよ。確かに、本当にね、そこにいるって感じられました、そのときはね。

時間にすると一分もないです、多分ね。十秒とか二十秒とか、そんなものなんでしょうけど、ふっと感じられなくなって、それでまた歩き出したんだけれども、無性に泣けて。泣けてって言っても悲しくてじゃなくて、嬉しくてなんです。なんか、遠野の霊がそこに来てくれたと思ってね。それがもう嬉しくてね。わんわん泣きながら歩いてました。

どういう感じなんですかね、ここに霊がいるってわかるのは。

生身の人間がそこにいれば存在感を感じますよね。それと同じ感覚です。姿は見えないけど、あ、そこにいるって、そう思いました。

そのときテレビのスタッフはいなかったんですか。

いないんですよ。だからその夜ね、ディレクターに、実はこんなことがあったんだよねって話したら、「原さん、ぜひそれを撮影したい」って言うんですよ(笑)。「もう一回お願いします」って(笑)。そんなに出るわけないだろうってことですけど、もう一回ぐらいは出てくれるかなって、私もふとそう思ったんですよ。

コース全体がヒマラヤの霊場でしょ。途中の大きな町だったんですけど、そこに滝があると。で、滝っていうのは、霊が出やすいスポットだっていうことがあるので、そこで念じてみよう、呼びかけてみようって話になったんです。

で、宿について、滝のすぐそばの崖に座って、一生懸命集中しようとするんですけど、テレビのクルーがあそこにいるってわかってるじゃないですか。その邪念が消えないですよね。しばらく集中して、遠野の霊に呼びかけようとしたんですけど、邪念が消えなかったせいだと思うんですけど、だめでしたね。それで、テレビのクルーも諦めましたけどね。

そのあと、ガンジス川の源流にたどり着くわけですが、氷河の中から水が滔々と湧いている、これが源流だと言われてイメージが変わりました。日本人の源流のイメージって、やっぱり葉っぱとかね、地面のなかから出るとか、水滴がポタッと落ちてチョロチョロチョロっていう感じだけど、もう最初っから、氷河の下からドーッと音がしながら出ていて、ああ、全然違うなと思って。そこで、水筒に水を汲んで、持って帰って遠野のお墓に、「行ってきたよ」って水かけてあげましたけどね。

そのあと、霊と出会ったことはないんですか。

そのときだけですね。足が効くうちに、ひとりでもう一回、インドのあそこを歩けば霊が出て来るかもしんないなって、そういう期待はあるんだけど。

だからいまも、遠野を思い出しているっていうことは、ちょっと離れたところに、あ、あそこにいるなっていうぐらいの距離感で遠野の霊がいるから、いま思い出してるんだなって思うようになりました。そんな時は「遠野」って呼びかけるようにして、いろんな話をします。


原一男監督の映画『ニッポン国VS泉南石綿村』は現在公開中です。そして、末井昭さん原作の映画『素敵なダイナマイトスキャンダル』は3月17日から公開されます。2本ともぜひ映画館でご覧ください。(編集部)

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