6.25.2018

南国科学通信 第6回 確率と自由

全卓樹
第6回 確率と自由


確率の概念は人間にとって非常に基本的なものである。人は希望を胸に確率の神殿を訪れて、まれに確信を、多くは傷心を抱いてそこを去る。世の中は不確定で不測の事態でいっぱいなので、人のサバイバルには、進化の途上での確率概念の獲得が不可欠だったに違いない。

確率の中心にある概念が「出鱈目でたらめ」もしくは「ランダムさrandomness」である。明日は晴れるかもしれず、雨が降るかもしれず、確実なことは言えない。ランダムに起こる不確定な事象に対しては、人間のほうもランダムに、緻密に考えて対応するより、むしろ気まぐれに自由に対応したほうが、良い結果を招く場合も多い。

例えば「じゃんけん」を考えてみる。ゲーム理論の告げるところによれば、じゃんけんの最良の戦略は、グー、チョキ、パーを均等に混ぜて出鱈目に出すことである。いやゲーム理論など知らずとも、だれでも経験的にそれを知っている。なにかの戦略を練って出し方をきめると、そのうちパターンを読まれて負け始めるからである。

数年前に中国の王、徐、周の三人の物理学者が、多数の人間の無数のじゃんけんプレーのビッグデータを分析してみた。するとどうも人間は、じゃんけんを完全にランダムにプレーしてはおらず、最初に出す手はグーがチョキやパーよりも数%多く、また繰り返しのプレーでは前回の相手を負かす手を出す傾向があるらしい。特に負けたときにこれがいちじるしかった。これを知ってると、そのパターンの逆を行くことで、統計的に勝ちやすい出し方が見つかるだろう。つまり最初はパーを出すと勝ちやすく、次はこのパーに勝とうとチョキを出す相手にグーを出すと勝ちやすい。適度に出鱈目を混ぜながらこういう風にプレーするのである。


実は筆者はこれを実行しており、最近ではじゃんけんで勝つことのほうが負けることより多いのはここだけの秘密である。あなたも試してみられるといかがだろうか。しかし人間の癖を突いたこのような理詰めの統計的必勝法が広がって一般化したらどうだろう。今度はそれの裏を読んで勝つプレーが出てきて、今のは必勝法ではなくなるだろう。そしてそれに勝つやり方が出て、と言う具合にすすむことになる。そのうちこのような計算ずくのやり方はけっきょく損だと皆が気づいて、しまいに人は、完全に気まぐれに、本当にランダムになるようことさら意を用いながら、じゃんけんをプレーすることになるだろう。

このように考えると、人間の気まぐれは不確定な状況への最適な対応として発生してきたのではないかという、おぼろげな推測さえできる。すなわち、世のさだめなさこそが人間の勝手気ままな振る舞いを生み出した、とするのである。

気まぐれ、勝手気ままさは、人間の自由という概念の根幹の一つである。正しい理屈に従うのが真の自由というお説教はよく聞くのだが、それは詭弁だろう。理屈であれ他人の権威であれ、それに無条件に従うのは隷属である。身勝手さ気ままさは自由の一部である。福沢諭吉がLibertéにあてる日本語の「自由」を考えた時、別の有力候補は「天下御免」であった。世界の不確実性は人間の自由を生んだ一つの契機であるに違いない。

マルセイユ版タロット「愚者」

 * * *

確率概念はわれわれの心に深い根を持ち、確率的判断は本能の一部である。降雨確率80%と言われて傘を持って行く判断をするのにスーパーコンピュータの助けは要らず、高飛車な恋の相手に告白するかどうか迷って統計学者に相談に行くこともない。日常的場面ではわれわれは各自、ほとんどあやまつことなく瞬時の決断を行うことができる。

しかし本当にそうだろうか。

次の問題を考えてみよう。金曜の夜の高知市の飲酒運転率は 1 / 1000 である。つまり千人に一人の運転者が酒に酔っている(数字はすべて架空である:念のため)。高知県警の飲酒検知器の精度は 99 %である。逆に言うと 1 %の割合で間違えると言うことである。さてお巡りさんが夜の街に出て、ランダムに車を止めて検知器をかざすと、ピーピーと飲酒を示す警報が鳴り出した。署まで来てもらおう。ではこの運転者が本当に飲酒運転をしていた確率はどのくらいだろうか。

答えを(1)90 %以上、(2)10 と 90 %の間、(3)10 %以下、の中から選ぶとすれば、あなたはどれをとるだろうか。

実際にこのテストをやってみると、正解率は思ったよりずっと低い。筆者が教室で行ったら 6 割近くが(1)を、 1 割ほどが(2)を選び、正答の(3)を選んだのは、残り 3 割ほどだけであった。

えっ、9割9分検知器は正しいのだから、検知された運転者は9割9分酔っているのでは?

いま千人の運転者に検知器を当てたとしてみる。この千人のうち、酔っているのは統計的にいって一人である。この一人に検知器を当てるとほぼ確実に警報がなる。一方酔っていない 999 人に検知器を当てると、誤動作で警報のなるのが 999 × 1 / 100 で十人ほどとなる。全体で見ると警報のなるのは十一人でそのうち本当に酔ってるのは一人、つまり検知された人が飲酒していた確率は 1 / 11 で 9.1 %ほどであり、正解は(3)となる。

稀な事象に対しては、それに見合うだけの精度で測定をしない限り、まちがって検知した偽事象の収集だけで終わってしまう、というのが教訓である。運転者からの多くのクレームで県警は検査を中止し、酔っ払い運転手は検挙もされず、ヤシの並木の夜の街を自由に行き交うことになる。

歴史を紐解けば、過激な反政府運動に悩む政府が、精度の荒いテロ容疑者捜査を行った結果、無実の逮捕者で監獄が溢れ、政府がいよいよ不人気になってゆく、という例に頻繁に出くわす。確率の正しい扱いは社会正義にとっても重要事項なのである。

この例は、確率に関して人間が犯しがちな勘違いのひとつ、専門用語で「基準率きじゅんりつ錯誤さくご」と言われるものである。二つの確率を組み合わせて正しい確率を判断せねばならず、その過程が複雑になると判断停止となる。すると出された確率の答えに近そうな一方を答えにしてしまうという癖が、人間にはあるようだ。判断停止の状況でも、とりあえず行動をしたほうが良いという条件付けを受けてきた、人間心理の進化的発展の結果なのだろうか。

ここにはまた、稀な危険を大きな重みをつけて判断してしまう傾向も加わっていそうである。リスクを避けて過剰な安全策を取って生き残ってきたという、これも心理の進化的な適応の結果のようである。

複合した確率に関する人間の心理的錯誤は、他にもいくつもの種類があって、世に行われる詐欺の多くもこれを突いたものである。
嘘には三種類あって、嘘、真っ赤な嘘、そして統計である。
――ベンジャミン・ディズレーリ

ジョルジュ・ラ・トゥール「いかさま師」
(1630年頃)
メトロポリタン美術館


有用な概念である確率に思わぬトラップが潜んでいるのだ。

ともあれわれわれは、今日も確率を、リスクと利得を、咄嗟とっさに判断して生きねばならない。金曜の夕方もうおそく、くつろぎの待つ家路をあなたは急いでいる。夕空のあかねに染まった海沿いの道路は空っぽである。速度計は制限速度いっぱい。どこにもパトカーは見えない。あなたは自由である。潮風に陶然とうぜんとしてあなたはアクセルを踏み込む。瞬間、バックミラーに鮮烈な赤い光が映る。それははたして沈む夕日の反射か、それともパトカーの警報燈か。



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