1.08.2015

伊勢崎賢治『本当の戦争の話をしよう』第三回

第3回
伊勢崎賢治さんの『本当の戦争の話をしよう ――世界の「対立」を仕切る』を1月15日に刊行します。伊勢崎さんが「気がついたときには、こちらが丸裸にされていた」と語る5日間の講義録。今回は1章の一部をお届けします。自己紹介も兼ねて、初めて暮らした外国、インドのこと。スラムに入り浸り、住民運動を組織し、国外退去命令をくらって追い出される。その後、「紛争屋」となり、アメリカの戦争に巻き込まれてゆくまで。(編集部)

1章
もしもビンラディンが
新宿歌舞伎町で
殺害されたとしたら(その1)

23歳でインドのスラムに入り浸る

僕が最初に行った外国、インドのことから話します。僕は、高校を卒業して早稲田大学の建築学科に入り、大学院に進みました。小さいころから芸術家志向で、画家か建築家のどちらかになりたかったのですが、人生を狂わせてくれたのが(笑)、このインドでした。

建築を学ぶ学生としては、僕の美的感覚はちょっと変わっていて、教科書に載っているような世界の名だたる建築家がデザインしたものを、どうしても美しいと感じられなかったんです。なんかわざとらしいと……わざとって、デザインだからどうしようもないんだけどね。
じゃあ自分は何をしたいんだろうって悶々としているとき、ある写真集に衝撃を受けたのです。それはアジアの貧民街、スラムへの潜入写真でした。

想像つくかな。何のデザインもなく、それぞれの住民が生存ギリギリの財力で、でも自由に建てる掘っ建て小屋がいっぱい、何層にも重なってゴワーっと密集している。混沌の美というか、不連続な統一感というか、全体として醸し出す強烈なエネルギーを感じたのです。

でも、そういうところは犯罪の巣窟であり、社会の底辺、構造的暴力の犠牲者たちが住むところでもある。まじめな社会問題として見なければならないのですが、不謹慎にも僕は、ひとつの造形として惚れちゃったんです。で、この場所に行きたくて、どうしようもなくなった。そんなとき、たまたま大学の掲示板に貼ってあったインド政府の国費留学生募集に目がとまり、試験を受けてみたら受かっちゃったんですね。

教育大国インドには、多くの大学があります。大学の一覧から、カリキュラムにslum、そしてfield work とあるものを目を凝らして探した。そして、インド最大の商都ボンベイ(現在はムンバイ)にあるボンベイ大学のソーシャルワーク学科を見つけました。
日本でソーシャルワークというと、福祉事業をイメージするかもしれないけれど、ここでは違います。

社会の構造的な問題を研究するのは社会学で、いわゆる社会問題の被害を被っている人たちを研究対象にしますね。ソーシャルワークというのは、それだけにとどまらず、そういう人たち(生きるのに忙し過ぎて自分たちを苦しめる「構造」に気がつかない人たち)を「覚醒」させ、そして横に連帯させて大きな発言力にする。日本の全共闘世代の言葉でいうと、オルグ(組織化)しちゃう。それでもって大規模なデモなどを組織して、体制側を威嚇し、譲歩を引き出す。
まあ、底辺の力で社会をチェンジしようと、社会運動や反体制運動を志向する、ちょっと物騒な学問領域です。

インドは、ガンディーの非暴力・不服従運動を生み出し、イギリスの植民地支配からの独立を果たし、その後、冷戦下には東西いずれの陣営にも属さず、アジア、アフリカの旧植民地を束ねていった非同盟主義を主導しました。ある意味、弱い者の側に立った、世界のモラルをリードしてきた国だといえます。

でも一方で、カースト制があり、人間に「クラス=階級」を設ける差別が歴史的に慣習として浸透している。そして宗教間対立、少数民族の分離独立運動が複雑に絡み合い、社会の構造が、多くの人々を犠牲にしている国でもあります。
そういう問題を解決する努力と知性が足りないのか、というふうに考えちゃうけど、否。問題が多い分、それらをなんとかしようとする研究、学問、そして運動が発達するんだ。

大学では、どんな人たちと一緒に勉強していたんですか。

学生はヒンドゥー教徒とその他、そのふたつに分かれていたかな。ヒンドゥー教徒は、インドで最大の宗教グループだからね。カーストの高いのと低いのと、両方いた。その他は、まず「新仏教徒」(独立期、インド憲法を草案したアンベドカル博士はヒンドゥーのカーストの最下層出身で、差別から逃れるために彼が始めたのが、この改宗運動だった)。それとキリスト教徒、イスラム教徒の学生がいたね。

ソーシャルワークを志す学生たちだから、学校生活では絶対に差別感など表すことはないけど、僕は外国人で、彼らのどのコミュニティーにも属さない立場でしょう。だから、ことあるごとに、いろんな陰口、それも個人を対象にするというより、その個人が属するコミュニティーを揶揄するような陰口の発散に使われていた気がする(笑)。

僕は飽きっぽいところがあって、ボンベイ大学は1年で中退してしまうんです。とにかくフィールド、つまりスラムに行きたくて、いろんなツテでひとつのスラムにかかわり、そこに入り浸るようになり、学業をほったらかしにしちゃった。不良学生ですね。
ところで、『スラムドッグ$ミリオネア』っていう映画、知ってる?

観ました。アカデミー賞をたくさん獲った。

作品賞、監督賞、作曲賞他、総なめにしたね。あの映画の舞台が、アジア最大のスラムといわれたダラビというところで、僕がいた場所です。ボンベイには、ダラビを含め、スラムが無数にあります。ボンベイの当時の人口は約1千万人で、東京都と同じくらい。

日本にも、河川敷きや公園にホームレスがいますが、全体から見ると圧倒的に少数派ですよね。2011年度の調査では10890人で(厚生労働省)、決して少ないとは思いませんが、それでも人口比で0・01パーセントにも満たない。でも、ボンベイでは人口のうちの6、7割が、スラムや路上生活者などの不法占拠者、日本的にいうとホームレスです。

インドのカースト制で、いちばん上のクラスにいる人たちは、宗教を司ってきた家系の人たち。その下には、昔の日本の士農工商のような階級ができている。で、その階級制度の外、最も底辺というだけでなく、人間の階級の外にいるという扱いをされてきた人たちがいて、これをアウト・カーストと呼ぶ。別名「アンタッチャブル」、不可触賤民といわれ、触るだけで穢れるとされてきた。

なぜそういう人たちが誕生したかというと、やっぱり職業の分業でしょうね。たとえば、屠畜業や皮なめし(牛の皮をはいで、なめして皮製品をつくる職業)。どちらも動物の死体を扱うもので、人間の生活に必要なものだけど、自分はやりたくないという作業だよね。そして、自分の糞尿の始末も、ほんとに身勝手だけど、できれば自分はやりたくない……。やりたくない作業を特定の人たちに押し付けることに、社会は言い訳を探したのでしょうか。それを長い歴史で慣習化してきたのが、この不可触賤民という家系集団の存在だったと思うのです。

現代のインドでは、憲法でカーストによる差別を禁止しています。そういう人たちが公務員採用や大学入学で優遇措置を受けられるような法律も施行されたし、そのおかげで政財界で活躍している人たちもたくさんいる。しかし現実には、異なるカースト間の婚姻はまだ少ないし、不可触賤民への結婚差別は根強いんだ。

「えんがちょ」という言葉があるでしょう。たとえば、うんちを踏んでしまった友達に対して、これを唱えると防御のバリアーができる。だけど、これを唱える前にタッチされちゃうと、踏んだのは足で、手は汚れていないはずなのに、伝染しちゃうという子供の遊びだよね。
「穢れ」って、ほんと感覚的なもので、簡単につくれちゃう。

不可触賤民のような社会差別の構造にも、これと近いものが流れているのだろうか。血が穢れると思うのかな。そんな家系の人たちが努力して、経済的にも社会的地位でも、上流の人々と何ら遜色ない身分になっても、結婚差別は歴然と現在でもある。やだね。

日本にも同じようなものがあります。部落差別ですね。差別撤廃のために部落解放運動が起こったのは知ってるよね。その努力もあってか、東京では、差別はあまり実感できませんが、この日本でもまだ根強く残っています。
インドでは、とくに農村部でひどい。カーストの差は、即、貧富の差みたいになっている。そういう呪縛から脱け出すために、大都市へ行きたくなる。こうして田舎から出てきた人たちの行きつくところが、スラムなんです。

新参者は、同じ村出身とか、できるだけ同胞意識が感じられる同じカースト、同じ言語、宗教の人たちを頼りにします。何のツテもなくひとりで田舎から出てくるのは心細いからね。そうやってスラムは、出自にまつわるアイデンティティーを拠り所とするコミュニティーを核に、そんな核が背中合わせにいっぱいできて、どんどん増殖してゆくのです。

僕が暮らしたダラビの人口は、当時60万人。もう、ひとつの小都市だよね。学校も診療所も、そして娯楽も、ダラビの外に出なくても全部まかなえる。そしてスラムは、麻薬、売春等、あらゆる犯罪ネットワークの巣窟でもあります。そういう犯罪に荷担する連中、犯罪組織の大親分も、コミュニティーでは、いたいけな子らをもつ、ごくふつうの親父たちです。

スラムでは、反社会的行為に手を染める人も、ふつうの善良な市民も、ともに劣悪な環境で生活し、政府当局の強制撤去の警察隊とブルドーザーに日々怯えている。僕の仕事は、そんな彼らをまとめあげ、ひとつに団結させて政府当局に対抗する社会運動に導くことでした。
僕は、そういう社会運動の支援を目的にしたインド国内のNGO(非政府組織)に、インド人の給料で雇われていたのです(学生ビザしかもっていなかったので、厳密には違法就労ですが)。


スラムのなかのコミュニティー間の関係は、はっきり言って、あまり良くありません。とくに若い連中は、どの国でもそうですが、なにかと身内でツルんで、他のグループにイキがりたがる(笑)。インドでいちばんやっかいなのが、ヒンドゥー教徒対イスラム教徒のそれです。このふたつの宗教の対立の遺恨は、イスラムがインドアジア大陸に到達した11世紀頃まで歴史を遡らなければなりませんが、何と言っても、「ひとつのインド」として独立できなかったことにあります。

1947年、イギリスの植民地支配からインドは独立を果たしますが、ヒンドゥーのインド、イスラムのパキスタンというふうに分離独立してしまった。このとき、インドに暮らしていたイスラム教徒はパキスタンへ、パキスタンに暮らしていたヒンドゥー教徒はインドへと民族大移動が起こります。故郷を捨てなければならない理不尽さへの怒りをお互いにぶつけ合い、数百万人が殺し合ったといわれています。独立が遺恨から始まって、その後、インドとパキスタンはずっと戦争状態で、お互い核兵器までもっている。

インドに残留したイスラム教徒は、インドでは少数派で、人口の10%強くらい。でも、貧民街であるスラムでは、逆にイスラム教徒の割合は高くなります。ダラビでは半分近くだったかな。つまり、イスラム教徒は、相対的に経済的な弱者といえる。
ヒンドゥー教徒は、「嫌パキスタン」で愛国心を刺激される傾向が強く、よりヒンドゥー教徒の結束に向かい(ヒンドゥー至上主義)、何かとイスラム教徒を目の敵にする人々がいます。そういう主張の政治政党もある。

こういう状況が、ちょっとした若者同士のいざこざを、大きな宗教間対立に発展させてしまうのです。ご近所なのにコミュニティーどうしでいさかいが絶えず、殺し合ったりする。『スラムドッグ$ミリオネア』は、そうやって煽られた暴動のなかで、イスラム教徒の母親が、ヒンドゥー教徒の暴徒に殺され、2人の兄弟が孤児になるところから物語が始まります。

「分断」を束ねるには

ところで、みなさんは、学生運動をやらない?

ええ? ないです(笑)。

やらないか。たとえば……校長先生があまりにも酷い人で(笑)、就任以来、理不尽で厳し過ぎる校則を連発し、みんなが、ちょっとどうよーと困っていたとする。ひとりで文句を言いに行っても、「おまえ、内申書悪くするよ」って言われたらおしまいだよね。でも、大勢で押しかければ、少しはビビるかもしれない。どうやってみんなの力をまとめますか?

リーダーをつくる。

うん、まずはリーダーがいないとまとまらないよね。他には?

署名を回覧板みたいにまわして集める。

教頭先生とか、理事を味方につけて、校長先生を孤立させる。

いいですね(笑)。そんなふうに戦略を練るでしょう。署名を集めるというのは団結を示すということで、組織化ですね。

こういうことを、僕はダラビでやっていました。スラムに住む人たちはまとまってくれないし、下手をすると殺し合う。そういう人たちをいかに団結させるかですが、どうすると思う? みんなまとまろう、人類は愛し合わなくちゃいけないんだ、手をつなごうよ、とか言ったと思います?

うーん(笑)。

そういうことは言えないんだよね。それを言っちゃうと、お前はどこの宗教の回し者だ、改宗させようとしてるんじゃないだろうな、とか思われちゃう。だいたいすべての宗教って、友愛をうたっているでしょう。でも、その宗教が争いの原因になるんだよな。

このなかでいがみ合っているより、政府のほうがこわいんだ、共通の敵だと言ってまわって、とりあえず組織間の争いをやめて政府を倒そうと訴える。

はい、その通りです。共通の敵をつくればいい。それじゃあ、僕は、政府と戦うことを煽ったのでしょうか。でも、僕がいた80年代のインドは社会主義バリバリの国だから、反政府運動をすると、こっちの身が危ない。

「共通の敵」ですが、敵というのは、別に政府や特定の指導者じゃなくてもいいでしょう。「共通の問題」でもいい。イスラム教徒であろうがヒンドゥー教徒であろうが、トイレがない、水がない、警察当局に住居が強制撤去されてしまうというのは共通の問題です。こういう「同じ苦しみ」でもって、敵対するコミュニティーを束ねていくのです。そこでは、愛とか友愛といった呼びかけは、一切しません。共通の問題が解決したら、また元の通りに殺し合ってください、というくらいの気持ちでやらないとダメ。さもないと、こいつらの後ろに何がいるんだ?と疑われかねないからね。

束ねる作業というのは、まず各コミュニティーにいる、できるだけ穏健なリーダー格の人物たちを探し出すことから始まります。だいたい、どんな国の行政でも、住民の生活のためにつくられたのに、使われずに埋もれた法律があって、政府も、住民の無知につけ込んでわざわざ知らせなかったりしている。知らせていたとしても、役人が手続きを煩雑にしたり、ワイロを要求したり、とにかく弱者につけ込んでいるんだ。

強制撤去が、憲法に定める基本的な人権の保護に反していることも知らない。そういう自分たちの無知をリーダーたちに気づかせ、自分たち自身への静かな「怒り」をつくります。
そして役人と対峙するときは、集団で行く。集団を前にしたらワイロは取れないしね。

そうやって、静かな怒りをバネに、行政との団体交渉の実績を少しずつ重ね、ひとつの住民組織をつくってゆくのです。行政が、どこかのコミュニティーを狙い撃ちにしてブルドーザーと警官隊で強制撤去するときなんか、コミュニティーを超えてみなで駆けつけ、大きな力で睨み返せる。こういう状況では、やはり警察の挑発に乗って暴力沙汰になることがあるけれど、極力、インド伝統の非暴力主義を基本とします。

この組織は、ダラビ住民の3分の2となる40万人を束ねるまでになりました。そして市庁舎にデモ行進を仕掛け、行政を団体交渉の場に引きずり出し、共同トイレや上下水道などの公共インフラ整備を獲得していったのです。

外国人が、そういうことをするのって難しそう。どうやって入っていくんですか。

うん、僕は部外者。僕に給料を払っていたNGOの同僚たちも、スラム出身じゃないから同様に部外者です。とくに僕は唯一の外人だったからね。スラムの人たちは率直で辛辣だから、「所詮、おまえらは俺たちの問題で飯をくってるんだろ」って、よく言われた。そういう非難はあって当然で、部外者は当事者に同化はできないし、する必要もない。でも、部外者だからこそできることがあって、それをするべきなんです。

リーダーのあいだで対立が起きたときなんか、地元社会の利害から中立な立場って、仲裁には有効だよね。そのNGOの同僚にもいろんな宗教の人たちがいたから、チーム内で時々もめごとが起きて、外人の僕は、いい仲裁役だった(笑)。加えて、先進国日本から来ているということで、「外」から見られているというのかな、行政側も僕らの活動に対して迂闊なことはできないと感じていたと思う。不当逮捕なんか、よくある状況だったからね。

でも、こういう僕って、インド政府から見たら、好ましくない外人ですね。たとえば日本で、アメリカ人が日本の部落の人たちを煽動して部落解放運動をやったら、どう思う? あんまり気持ちよくないよね(笑)。そういう気持ちをインド政府が抱いたのは当然です。
結局、僕は2年後、インド政府に目をつけられて、国外退去命令で追い出されました。

「紛争屋」となり、アメリカの戦争に巻き込まれてゆく

こうして、後ろ髪をひかれるように帰国し、しばらく職探ししていたのですが、運良くアメリカに本部のある国際NGOの現地責任者として雇われ、1988年、アフリカのシエラレオネに赴任しました。その後もケニア、エチオピアと10年間、家族と一緒にアフリカで暮らしました。

内戦の話で、ちょっと暗いイメージを植え付けてしまいましたが、家族と暮らしたアフリカは大好きで、とくにシエラレオネは第二の故郷と思っています。アフリカにいると、時々鏡で見る自分の白い顔に驚くほど、自分の肌の色を忘れます。こちらが人種の違いを忘れるほどオープンな人たちで、アフリカの人々に囲まれていると、気兼ねなく安心できる。

その後、2000年、国連の任務で、東南アジアの東ティモールという国に行きました。東ティモールは小さな島国ですが、実効支配を受けていたインドネシアとの独立戦争が24年も続き、めちゃくちゃに破壊されていました。そこに新しい国家を建設するため、国連が暫定政府をつくることになって、僕は県知事として赴任しました。このときのことは、今日の後半に、また話しますね。

それから、2001年、再びアフリカのシエラレオネにもどります。以前は、家族と一緒でしたが、今度は軍隊と一緒です。僕が国際NGOをやっていたときに反政府ゲリラが蜂起し、僕らは脱出しますが、その後、内戦が激化し、10年間で50万人もの犠牲が出ていました。

二度目に訪れたときの僕の任務は、国連に所属し、多国籍軍約1万7千人の部隊とともに、ドンパチやっている連中たちのなかに割って入り、「もういっぱい殺したし、壊すものは何もないぐらい壊したし、このまま闘いつづけても、完全勝利はないって薄々わかってきてるだろ? 政府も国連も、これだけのことは保証するって言ってるから、このへんで手を打たないか?」と武装解除をネゴすることです。
このときは、少年兵を含む数万人の武装解除をおこないました。

帰国後、立教大学の教授になり、このまま日本に落ち着こうかな、と思っていた矢先、今度は日本政府から、アフガニスタンに行ってくれと連絡を受けます。ここから、僕はアメリカの戦争に巻き込まれてゆきます。


アフガニスタンでの戦争が始まったきっかけは、2001年9月11日の同時多発テロ事件ですね。4機の民間機がハイジャックされて、2機がニューヨークのワールドトレードセンターに、1機がワシントンの国防総省に突っ込み、1機は墜落し、3000名以上の命が奪われました。アメリカ合衆国が本土攻撃された。ハワイの真珠湾攻撃を別にすると、アメリカ本土が外敵の攻撃にさらされたのは、これが最初です。
アメリカ国民には、自国の突出した軍事力に批判的な人も、誇りにしている人もいるでしょうが、まさか我が本土が……と、その心理的な衝撃はものすごかったのだと思います。

テロの犯人は、アルカイダというイスラム過激派組織だと、当時のブッシュ政権は断定しました。その指導者、オサマ・ビンラディン等、幹部たちがいた場所はアフガニスタンです。

アルカイダは、9・11以前から、アフリカにあるアメリカ大使館を爆破し(1998年)、反米を掲げてテロ事件を繰り返し起こしていました。そんなアルカイダの面々を「客人」として迎え入れていたのが、当時のアフガニスタン政府、タリバン政権です。当然、アメリカは国連を通して、アルカイダの面々を引き渡すように要求したが、タリバンは断固拒否していた。
そして、9・11が起こる。アメリカは、即座に「報復」として、アルカイダをかくまうタリバン政権へ空爆を開始します。この開戦にあたって、国際法上の根拠としたのが、国連憲章でも認められている「自衛権」。敵が攻撃してきたのだから自衛は当然、という考え方です。

アメリカの報復攻撃は功を奏し、短時間でタリバン政権は崩壊します。そして、アフガニスタンに米軍を駐留させ、二度とアメリカに歯向かうようなテロリストの温床にしないよう、新しい国づくりを開始します。

ここで当時、ブッシュ政権と蜜月関係にあった小泉政権の命を受け、日本政府の代表として、2003年から翌年にかけて、タリバン崩壊後のアメリカの占領政策にかかわったのが僕です。戦後日本でのアメリカを中心とするGHQによる占領政策とは、もちろん単純に比較できないけれど、アメリカが破壊した国を、アメリカの国益になるように作り替える作業に参加したことは、僕にとって、まだ生まれていなかった当時の日本に感情移入する機会となりました。

で、アルカイダの面々はどうなったかというと、アメリカは取り逃がしちゃったんですね。タリバンの幹部たちも。その後すぐに、この面々は隣国パキスタンをベースに力を盛り返し、彼ら、つまりテロリストとの戦いは、今も継続しています。

アメリカがアフガニスタンでやっている戦争は2001年から、もう10年以上も続いている。これほど続く戦争は、アメリカの歴史においても稀です。第一次世界大戦が4年(1914~1918年)、第二次世界大戦が6年(1939~1945年)、ベトナム戦争が15年くらい続き(1960~1975年)、そのうちアメリカが直接かかわったのが10年くらい。
オバマ大統領は、2014年末にアメリカ軍を撤退させると言っていますが、撤退できたとしても13年。アメリカ建国史上、最長の戦争になりつつあります。すでに米兵の死者は2千人を超え、莫大な戦費と犠牲で、アメリカの経済も、戦争継続を支持する世論も急速に萎みつつある。

終わりの見えないテロリストとの戦い。そもそもテロリストって、なぜアメリカや僕らに牙を剝いてくるのだろう。今日はその理由を考えてみよう。

題辞(本の装丁デザイン)=寄藤文平+吉田考宏(文平銀座)
絵=伊勢崎賢治

[著者紹介]

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つづく

伊勢崎賢治
『本当の戦争の話をしよう』

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プレハブ校舎にて、「紛争屋」が高校生に本気で語った、日本人と戦争のこれから。
「もしもビンラディンが、新宿歌舞伎町で殺されたとしたら?」「9条で、日本人が変わる?」「アメリカ大好き、と言いながら、戦争を止めることは可能か?」
伊勢崎さんがこれまでやってきたこと、見てきたこと、とりかえしのつかない失敗。すべてを正直に伝え、そんな自身の経験・視点を、ひとつの材料として高校生に伝えながら、現在の日本と世界が抱える問題を考えてゆきます。