6.10.2011

國分功一郎
第2回

少しは余裕ができた。明日の糧をどうやって手に入れるか、そのうんざりするような綱渡りから、やっと解放された。差し当たり雨露をしのぎ口にするものは手に入った。そればかりか、休日に何をするか、思い煩うことも増えた。そして時折り胸に兆すある痛覚。「何が楽しいのか分からない」……。問いがくっきり視界に捉えられる。(編集部)

序章――「好きなこと」とは何か?(承前)

最近他界した経済学者ジョン・ガルブレイス[1908~2006]は、二〇世紀半ば、一九五八年に著した『豊かな社会』でこんなことを述べている。

現代人は自分が何をしたいのかを自分で意識することができなくなってしまっている。広告やセールスマンの言葉によって組み立てられて初めて自分の欲望がはっきりするのだ。自分が欲しいものが何であるのかを広告屋に教えてもらうというこのような事態は、十九世紀の初めなら思いもよらぬことであったに違いない。*2

経済は消費者の需要によって動いているし動くべきであるとする「消費者主権」という考えが長く経済学を支配していたがために、自分の考えは経済学者たちから強い抵抗にあったとガルブレイスは述べている*3。つまり、消費者が何かを必要としているという事実(需要)が最初にあり、それを生産者が感知してモノを生産する(供給)、これこそが経済の基礎であると考えられていたというわけだ。

ガルブレイスによれば、そんなものは経済学者の思い込みに過ぎない。だからこう指摘したのである。高度消費社会―彼の言う「豊かな社会」―においては、供給が需要に先行している。いや、それどころか、供給側が需要を操作している。つまり、生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようしている、と。

今となってはガルブレイスの主張は誰の目にも明らかである。消費者の中で欲望が自由に決定されるなどとは誰も信じてはいない。欲望は生産に依存する。生産は生産によって満たされるべき欲望をつくり出す。*4
*2―John Kenneth Galbraith, The affluent society, 40th anniversary edition, Mariner Books, 1998, p.2
ジョン・ガルブレイス、『ゆたかな社会』(決定版)、鈴木哲太郎訳、岩波現代文庫、二〇〇六年、一五ページ
*3The affluent society, p.ix 
『ゆたかな社会』、「四〇周年記念版への序文」、六ページ
*4The affluent society, p.127 
『ゆたかな社会』、二〇三~二〇四ページ
ならば、「好きなこと」が、消費者の中で自由に決定された欲望に基づいているなどとは到底言えない。私の「好きなこと」は、生産者が生産者の都合のよいように、広告やその他手段によって創り出されているかもしれない。もしそうでなかったら、どうして日曜日にやることを土曜日にテレビで教えてもらったりするだろうか? どうして趣味をカタログから選び出したりするだろうか?

こう言ってもいいだろう。「豊かな社会」、すなわち、余裕のある社会においては、確かにその余裕は余裕を獲得した人々の「好きなこと」のために使われている。しかし、その「好きなこと」とは、願いつつもかなわなかったことではない

問題はこうなる。そもそもわたしたちは、余裕を得た暁にかなえたい何かなど持っていたのか?


すこし視野を広げてみよう。

二〇世紀の資本主義の特徴の一つは、文化産業と呼ばれる領域の巨大化にある。二〇世紀の資本主義は新しい経済活動の領域として文化を発見した。

もちろん文化や芸術はそれまでも経済と切り離せないものだった。芸術家だって霞を食って生きているわけではないのだから、貴族から依頼を受けて肖像画を描いたり、曲を作ったりしていた。芸術が経済から特別に独立していたということはない。

けれども二〇世紀には、広く文化という領域が大衆に向かって開かれるとともに、大衆向けの作品を操作的に作りだして大量に消費させ利益を得るという手法が確立された。そうした手法に基づいて利益を挙げる産業を文化産業と呼ぶ。

文化産業については膨大な研究があるが、その中でも最も有名なものの一つが、マックス・ホルクハイマー[1895~1973]とテオドール・アドルノ[1903~1969]が一九四七年に書いた『啓蒙の弁証法』である。*5

アドルノとホルクハイマーはこんなことを述べている。文化産業が支配的な現代においては、消費者の感性そのものがあらかじめ製作プロダクションのうちに先取りされている。*6
*5―Max Horkheimer, Theodor W. Adorno, Dialektik der Aufklärung – Philosophische Fragmente, in Theodor W. Adorno, Gesammelte Schriften, Band 3, Suhrkamp, 1997
ホルクハイマー、アドルノ、『啓蒙の弁証法』、徳永恂訳、岩波文庫、2007
*6Dialektik der Aufklärung, pp.145-146
『啓蒙の弁証法』、二五八〜二五九ページ
どういうことだろうか? 彼らは哲学者なので、哲学的な概念を用いてこのことを説明している。すこし噛み砕いて説明してみよう。

彼らが利用するのは、一八世紀ドイツの哲学者カント[1724~1804]の哲学だ。カントは人間が行う認識という仕組みがどうして可能であるのかを考えた。どうやって人間は世界を認識しているのか? 人間はあらかじめいくつかの概念をもっている、というのがカントの考えだった。人間は世界をそのまま受け取っているのではなくて、あらかじめもっていた何らかの型(概念)にあてはめて理解しているというわけだ。

たとえば、たき火に近づけば熱いと感じる。このときひとは、「炎は熱いから、それに近づくと熱いのだ」という認識を得るだろう。この「から」にあたるのが、人間があらかじめもっている型(概念)だ。この場合には、原因と結果を結びつける因果関係という概念である。因果関係という型があらかじめ頭の中にあるからこそ、ひとは「炎は熱いから、それに近づくと熱いのだ」という認識を得られる。

もしもこの概念がなければ、たき火が燃えているという知覚と、熱いという感覚とを結びつけることができない。単に、「ああ、たき火が燃えているなぁ」という知覚と、「ああ、なんか顔が熱いなぁ」という感覚があるだけだ。

人間は世界を受け取るだけでない。それらを自分なりの型にそって主体的にまとめ上げる。一八世紀の哲学者カントはそのように考えた。そして、人間にはそのような主体性が当然期待できるのだと、カントはそう考えていた。

アドルノとホルクハイマーが言っているのは、カントが当然と思っていたこのことが、いまや当然ではなくなったということだ。人間に期待されていた主体性は、人間によってではなく、産業によってあらかじめ準備されるようになった。産業は主体が何をどう受け取るのかを先取りし、受け取られ方の決められたものを主体に差し出している。

もちろん熱いモノを熱いと感じさせないことはできない。白いモノを黒に見せることもできない。当然だ。だが、それが熱いとか白いとかではなくて、「楽しい」だったらどうだろう? 「これが楽しいってことなのですよ」というイメージとともに、「楽しいもの」を提供する。たとえばテレビで、或る娯楽を「楽しむ」タレントの映像を流し、その次の日には、視聴者に金銭と時間を使ってもらって、その娯楽を「楽しんで」もらう。わたしたちはそうして自分の「好きなこと」を獲得し、お金と時間を使い、それを提供している産業が利益を得る。

「好きなこと」はもはや願いつつもかなわなかったことではない。それどころか、そんな願いがあったかどうかも疑わしい。願いをかなえられる余裕を手にした人々が、今度は文化産業に「好きなこと」を与えてもらっているのだから。

ならば、どうしたらいいのだろうか?


いまアドルノとホルクハイマーを通じて説明した問題というのは決して目新しいものではない。それどころか、大衆社会を分析した社会学の本には必ず書かれているであろう月並みなテーマだ。だが本書は、この月並みなテーマを取り上げたいのである。

資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。

そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている。高度情報化社会という言葉が死語となるほどに情報化が進み、インターネットが普及した現在、この暇の搾取は資本主義を牽引する大きな力である。

なぜ暇は搾取されるのだろうか? それは人が退屈することを嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは暇の中で退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。では、どうすればよいのだろうか? なぜ人は暇の中で退屈してしまうのだろうか? そもそも退屈とは何か? 

こうして、暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いが現れる。〈暇と退屈の倫理学〉が問いたいのはこの問いである。

←第1回へ

[著者紹介]