國分功一郎
第1回
パスカルは「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる」と言った。耳が痛い。じっとしていられないのはなぜか。なぜうろうろしてしまうのか。無聊をかこつからに違いない。無聊は「退屈なこと、心が楽しまないこと、気が晴れないこと」。「なんとなく退屈だ」と感じたことのない人はまずいない。空元気を出しても、斜に構えても、この気分から逃れる術はないように感じる。では、退屈を散じるために何があるか、手持ちの材料を点検してみるとまことに頼りないことがわかってくる。「我々の最も深いところから立ち昇ってくる「なんとなく退屈だ」という声に耳を傾けたくない、そこから目を背けたい…。故に人は仕事の奴隷になり、忙しくすることで、「なんとなく退屈だ」から逃げ去ろうとするのである」。これがハイデガーの言葉であると知って、いささか驚く人も多いだろう。退屈をめぐる哲学と倫理学が、ここに要請される。(編集部)
序章――「好きなこと」とは何か?
人類の歴史の中にはさまざまな対立があり、それが数えきれぬほどの悲劇を生み出してきた。だとしても、人類が豊かさを目指して努力してきたこと、豊かさが人類の目標であったこと、それは事実として認めてよいものと思われる。
人々は社会の中にある不正と闘ってきた。なぜなら、社会をよりよいものにしようと、少なくとも建前としてはそう思ってきたからだ。
しかし、ここでとても不可解な逆説が見出される。人類が目指してきたはずの豊かさ、それが達成されると人が不幸になってしまうという逆説である。
イギリスの哲学者バートランド・ラッセル[1872~1970]は一九三〇年に『幸福論』という書物を出版し、その中でこんなことを述べた。今の西欧諸国の若者たちは自分の才能を発揮する機会が得られないために不幸に陥りがちである。それに対し、東洋諸国ではそういうことはない。共産主義革命が進行中のロシアでは、若者は世界中のどこよりも幸せであろう。なぜならそこには創造するべき新世界があるからだ。*1
*1――「私見では、西欧諸国の最も知的な青年たちは、自分の最もすぐれた才能を十分に発揮できる仕事が見つからないことに起因する不幸に陥りがちであることを認めなければならない。しかし、東洋諸国では、そういうことはない。今日、知的な青年たちは、世界じゅうのどこよりも、たぶんロシアにおいて最も幸福である。そこには、創造すべき新世界があり、新世界を創造する際に拠るべき熱烈な信仰がある。〔…〕インドや中国や日本では、政治がらみの外的事情のために、若い知的階級の幸福が妨げられている。しかし、西欧に見られるような内的な障害は存在しない。若者たちにとって重要と思われる活動がどっさりある。こういう活動が成功するかぎり、若者たちは幸福である」
Bertrand Russel, The Conquest of Happiness, Liveright, 1996, pp.116-117
バートランド・ラッセル、『ラッセル 幸福論』、安藤貞雄訳、岩波文庫、一九九一年、一六二~一六三ページ
ラッセルが言っているのは簡単なことである。Bertrand Russel, The Conquest of Happiness, Liveright, 1996, pp.116-117
バートランド・ラッセル、『ラッセル 幸福論』、安藤貞雄訳、岩波文庫、一九九一年、一六二~一六三ページ
二〇世紀初頭のヨーロッパでは、若者が憤慨し、それを正すために立ち上がらねばならないような大きな社会的不正はもはや存在しなかった。なぜなら前の世代が多くのことを成し遂げていたから。したがって若者にはあまりやることがない。だから彼らは不幸である。それに対しロシアや東洋諸国では、まだこれから新しい社会を作っていかねばならないから、若者たちが立ち上がって努力すべき課題が残されている。したがって、そこでは若者たちは幸福である…。
ラッセルが言うのはこういったことである。
彼の言うことは分からないではない。使命感に燃えて何かの仕事に打ち込むことはすばらしい。だから、そのようなすばらしい状況にある人は「幸福」であろう。逆に、そうしたすばらしい状況にいない人々、打ち込むべき仕事を持たぬ人々は「不幸」であるのかもしれない。
しかし、何かおかしくないだろうか? 本当にそれでいいのだろうか?
ある社会的な不正を正そうと人が立ち上がるのは、その社会をよりよいものに、より豊かなものにするためだ。ならば、社会が実際にそうなったのなら、人は喜ばねばならないはずだ。なのに、ラッセルによればそうではないのだ。人々の努力によって社会がよりよく、より豊かになると、人はやることがなくなって不幸になるというのだ。
もしラッセルの言うことが正しいのなら、これはなんとばかばかしいことであろうか。人々は社会をより豊かなものにしようと努力してきた。なのにそれが実現したら、人は逆に不幸になる。それだったら、社会をより豊かなものにしようと努力する必要などない。社会的不正などそのままにしておけばいい。豊かさなど目指さず、惨めな生活を続けさせておけばいい。なぜと言って、不正をただそうとする営みが実現を見たら、結局人々は不幸になるというのだから。
なぜこんなことになってしまうのだろうか? 何かがおかしいのではないか? そう、ラッセルの述べていることは分からないではない。だが、やはり何かがおかしいのだ。
そして、それがさも当然であるかのごとくに語るラッセルも、何かおかしいのである。ラッセルのように、打ち込むべき仕事を外から与えられない人間は不幸であると主張するなら、このおかしな事態をどうにもできない。やはりわたしたちはここで、「何かがおかしい」と思うべきなのだ。
人類は豊かさを目指してきた。なのになぜその豊かさを喜べないのか? 以下に続く考察はすべてこの単純な問いを巡って展開されることとなる。
*
人間が豊かさを喜べないのはなぜなのだろうか? 豊かさについてごく簡単に考察してみよう。
国や社会が豊かになれば、そこに生きる人たちには余裕がうまれる。その余裕にはすくなくとも二つの意味がある。
ひとつ目はもちろん金銭的な余裕だ。人は生きていくのに必要な分を超えた量の金銭を手に入れる。稼いだ金銭をすべて生存のために使い切ることはなくなるだろう。
もうひとつは時間的な余裕である。社会が富んでいくと、人は生きていくための労働にすべての時間を割く必要がなくなる。そして、何もしなくてもよい時間、すなわち暇を得る。
では、続いてこんな風に考えてみよう。富んだ国の人たちはその余裕を何に使ってきたのだろうか? そして何に使っているのだろうか?
「富むまでは願いつつもかなわなかった自分の好きなことをしている」という答えが返ってきそうである。確かにそうだ。金銭的・時間的な余裕がない生活というのは、あらゆる活動が生存のために行われる、そういった生活のことだろう。生存に役立つ以外のことはほとんどできない。ならば、余裕のある生活が送れるようになった人々は、その余裕をつかって、それまでは願いつつもかなわなかった何か好きなことをしている、そのように考えるのは当然だ。
ならば今度はこんな風に問うてみよう。その「好きなこと」とは何か? やりたくてもできなかったこととはいったい何だったのか? いまそれなりに余裕のある国・社会に生きている人たちは、その余裕をつかって何をしているのだろうか?
こう問うてみると、これまでのようにはすんなりと答えがでてこなくなる。もちろん、「好きなこと」なのだから個人差があるだろうが、いったいどれだけの人が自分の「好きなこと」を断定できるだろうか?
土曜日にテレビをつけると、次の日の日曜日に時間的・金銭的余裕をつぎ込んでもらうための娯楽の類を宣伝する番組が放送されている。その番組を見て、番組が勧める場所に行って、金銭と時間を消費する。さて、そうする人々は、「好きなこと」をしているのか? それは「願いつつもかなわなかった」ことなのか?
「好きなこと」という表現から、「趣味」という言葉を思いつく人も多いだろう。趣味とは何だろう? 辞書によれば、趣味はそもそもは「どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方」を意味していた(『大辞泉』)。これが転じて、個人が楽しみとしている事柄を指すようになった。
ところがいまでは「趣味」をカタログ化して選ばせ、そのために必要な道具を提供する企業がある。テレビCMでは、子育てを終え、亭主も家にいる、そんな年齢の主婦を演じる女優が、「でも、趣味ってお金がかかるわよね」とつぶやく。すると間髪を入れず、「そんなことはありません!」とナレーションが入る。カタログから「趣味」を選んでもらえれば、必要な道具が安くすぐに手に入ると宣伝する。
さて、カタログからそんな「その人の感覚のあり方」を選ぶとはいったいどういうことなのか?
→第2回
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