9.20.2019

渡り鳥を率いて|南国科学通信|全卓樹

全卓樹
第17回 渡り鳥を率いて

世紀の変わり目、西暦2001年の年の暮れ、抜けるような青空と純白のビーチで知られるフロリダ州ペンサコラ郊外での出来事であった。住民たちは奇跡のような光景を目にした。北の空から、グライダー様の飛行体にひきいられた7羽の美しいアメリカシロヅルが、見事なV字の編隊へんたいで、町に隣接する自然保護区を目指して飛んできたのである。このようなシロヅルが冬ごとに渡って来た、70年以上も昔の少年時代をおもいだす老人もいた。


Whooping Crane
U.S. Fish and Wildlife Service Headquarters
Photo credit: USFWS


街はずれの路傍ろぼうでジープをとめて道に立ち尽くした初老の紳士が一人、あふれる涙のまま空を見上げていた。彼の名はビル・スレイデン博士、渡り鳥を研究する動物学者である。まさにこれが彼のプロジェクト、「渡り鳥作戦」の記念すべき成功の日であった。シロヅルたちは二ヶ月前、早い冬の訪れたウィスコンシンの湿地公園をあとにしていた。軽飛行機に率いられて、米大陸二千キロをはるばる南下して来たのである。グライダーのような軽飛行機を操っているのは、博士の友人、ウィリアム・リッシュマンである。


リッシュマンの少年時代の夢は空を飛ぶことであった。カナダ空軍に入ったものの、色盲が判明してパイロットの試験に落ちた。オンタリオの父の農場に帰った失意の彼は、夢をあきらめることができず、農場を手伝うかたわらグライダーの操作を覚えた。超軽量の簡易式軽飛行機を飛ばせたジョン・ムーディーの話をききつけた彼は、さっそく自分のグライダーを独力で改造して、軽飛行機に仕立て上げた。

転機は映画館で訪れた。かもの群れをボートが率いているシーンを見たのである。鳥たちに混じって飛行する少年時代の夢がよみがえった。モーターボートで可能ならば、モーターグライダーで鳥を率いることだって出来るはずではないか!

1988年、リッシュマンはついに、12羽のカナダガモの編隊を率いて農場の上空を周回することができた。その様子を自ら撮影した映画で、彼の評判は徐々に広まっていった。スレイデン博士に話が伝わったのは1992年のことである。

当時ビル・スレイデン博士は、アメリカのヴァージニア州エアリー鳥獣研究所で、絶滅危惧種のアメリカシロヅルの再生に取り組んでいた。かつて秋ごと春ごとの、北米の空の風物詩であったこの鶴も、今世紀になって急激に数を減らし、一時個体数が20を下るまでになっていた。彼の研究は壁につき当たっていた。ツルの人工孵化ふかには成功していた。しかし人間の育てた鳥は、親から道を教わる自然の鳥とちがって、渡りの技を覚えない。それで北アメリカの厳冬の環境に残されても、そこを生き抜くこともできない。一方フロリダの湖沼こしょう地帯に放ったアメリカシロヅルは、夏場の繁殖期、他の鳥との生存競争に耐えるのが困難で、なかなか定着しないのであった。


アメリカシロヅル
Grus Americana Alba, The hooping Crane
Catesby, Mark, 1683-1749
"The natural history of Carolina, Florida, and the Bahama Islands"
The New York Public Library


スレイデン博士は、軽飛行機に率いられた鳥の編隊の話を聞くと、即座に膝を叩いた。この飛行青年に、シロヅルを率いて大陸を南北にを渡ってもらおうではないか。

それから9年、最初はカナダガモ、ついで類縁種のハイイロヅルによるフィールドテストが繰り返された。特に難しかったのが、鳥が人にれないままの状態を保ちつつ、飛行機に付き従うことを教えることだった。野性を失ったツルたちは、渡りの練習を何度も途中で放棄して、学校の校庭に降り立っては子供たちと交歓こうかんするのだった。本来決して人を寄せつけないこの気高い生き物が、餌をねだって子供たちを追い回す姿を見て、スレイデン博士の目はくもるのだった。度重なる失敗を度重なる新機軸しんきじくで乗り越えて、2001年の晩秋がきた。リッシュマンとアメリカシロヅルによる、2ヶ月の本番飛行の時であった。

ペンサコラの路傍に立ち尽くしたスレイデン博士のすぐ真上を、美しい羽を誇るように広げて、リッシュマンとシロヅルの隊列が通ってゆく!

先頭を行くモーターグライダーから、飛行服にゴーグルのリッシュマンが手を振った。スレイデンを認めての挨拶であろうか、シロヅルたちの一斉にく声が野原一帯に響き渡った。


後日、なぜ鳥たちに渡りを教えたいと思ったのか、との新聞記者の質問に答えてリッシュマンは語っている。

人間は鳥から飛行を学んだのだから、飛べなくなった鳥に飛行を教えるのは、われわれの義務なのではないか感じたんです。

古代アメリカの伝説によると、太陽が毎朝のぼってくるためには、人間の気高い行いの奉納が絶えず必要なのだという。リッシュマンやスレイデンのような人々の営みも、あるいは地球が廻り続けている理由の一つなのかもしれない。


Whooping Crane Reintroduction
Wisconsin Department of Natural Resources




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(つづく)

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8.22.2019

言葉と世界の見え方|南国科学通信|全卓樹

全卓樹
第16回 言葉と世界の見え方

「リンゴ」という言葉なしでリンゴを思い浮かべることができるだろうか。おそらくは無理だろう。あの独特の芳香ほうこうを放つ甘い果物は、言葉で限定されてはじめて、ミカンでもないカキでもない何かとして、われわれの心の中に存在する。ところが奇妙なことに、この言葉はわれわれの内に最初からあったのではなく、外から心に注入された恣意しい的な記号である。リンゴという文字やそれを読み上げた音列と、リンゴの存在自体とを結びつけているのは、社会的な約束事のみである。

それを実感するには飛行機で旅立つのが良い。異国の見知らぬ街に降り立って、店先でいくらリンゴと叫んでも、望みの果物は決して得られない。




言葉という社会的約束事を通さずには、事物の存在の認知すら覚束おぼつかなくなるのである。だとすれば異国語の話者には、世界がわれわれとは違って見えているのではないか。白色に相当する何十もの言葉を持つイヌイットたちには、単色の北極圏世界がずっと多彩に感じられるのだろうか。

誰しも一度は思いをせただろう言葉と認知を巡るこのような疑問に、最初の明確な科学的解答を与えたのが、シカゴ大学の言語心理学者のジョーン・ルーシー博士である。ルーシー博士の本来の専門はマヤ語であった。神聖文字に覆われた謎の古代都市を、メキシコの緑濃いジャングルに残した人々の言葉である。古典マヤ文明の流れをむ現代のマヤ人は、今もユカタン半島で700万人ほどがマヤ語を用いて生活している。

マヤ語には「助数詞」の概念があって、ものを数える時、ものの種に応じ変化する語句を数字の後に加える。日本語でいえば、動物一匹二匹、電話一台二台という時の「匹」や「台」が助数詞である。ところが英語には「助数詞」に相当するものが存在しない。

「ろうそく」のマヤ語は「キブ」であるが、「ろうそく1本」は「ウン・チュト・キブ」となる。「ウン」が「1」、「チュト」が「本」である。

助数詞のおかげでマヤ語では、ものを指す名詞が「形」の拘束から解放される。固まって棒状でも溶けて板状でもろうそくは「キブ」であり、助数詞「チュト」を伴ってはじめて棒状と明示されるわけである。

対して助数詞を欠く英語では、多くの場合、ものを表す名詞自体が形の情報を含んでいる。ろうそく一本は「ア・キャンドル」であるが、「キャンドル」という名詞に棒状の形が含意されているのである。



漆喰に刻まれたマヤ文字(パレンケ博物館蔵)
wikipedia



西暦1992年、ルーシー博士は次のような実験をおこなった。被験者はまず手に乗るほどの大きさの「厚紙の小箱」を見せられる。ついで同じ位の大きさの「プラスティックの小箱」と、「平たい厚紙」を見せられて、最初のものと似た方を選べと告げられる。アメリカ人の被験者はほぼ常にプラスティックの箱を選び、マヤ人はかなりの割合で厚紙を選んだ。

これは最初にみたものを、英語話者は形で判断して「小箱」と認識し、マヤ語話者は素材で判断して「厚紙」と認識したからだ、と考える事ができる。名詞が形の情報を含む英語、含まないマヤ語という言語の構造が、物体の認知に影響を及ぼしている事が、この実験で初めて明確に証明された。

面白い事に、この実験を7歳以下の子供で行うと、アメリカ人にもマヤ人にも差が出ない。どちらでも形を優先して「プラスティックの小箱」が選ばれたのだ。マヤ人の子供が7歳以下ではまだ数助詞を正しく使えない事実と、これはぴったり符合する。

言語の構造が人の認知に直接的影響を持つとの指摘は「サピア=ウォーフ仮説」として知られ、言語学界ではこれをめぐる長い論争の歴史があった。20世紀初頭の全体主義の興隆ともからんで論争は政治的な色彩をび、長らくこの問題は学派間の分断の一因となってきた。しかしその種の原理的論争は今では影をひそめ、実証的研究に基づいた「言語学的相対論」、すなわち認知の根幹構造は生得的で共通だが、異言語による認知の差異は確かに存在するとの説が、大方の言語学者の認めるところとなっている。脳科学や深層学習など関連分野の進展もあって、言語と認知をめぐる研究は、今や「実用的」な段階に来ている。

世紀の替わり目の西暦2000年、ヘルシンキにあるフィンランド職業健康研究所で、フィンランドにおける労災事故の、フィン語話者とスウェーデン語話者の比較が行われた。ハイテク世界企業のノキアから家族経営の林業水運業まで、総計5万件の労災データが用いられた。シモ・サルミネン博士とアンテロ・ヨハンソン博士が発見したのは、スウェーデン語話者の事故率が、フィン語話者に比べて4割ほど低いという事実である。この結果は企業の規模や業種にほとんどらなかった。ちなみにフィンランドの労働環境は先進的で、多数派フィン語話者の労災事故率自体、欧州平均に比べて低い。

フィンランド国民の6%弱を占めるスウェーデン語話者は、6世紀以上の前からの居住者である。彼らは文化的にも経済的にも、そして生活習慣の上でも、多数派フィン語話者と完全に統合されている。言葉を話さない局面で両者の区別を行うのは、フィンランド人自身にとってもほぼ不可能だという。


  フィンランド語モノリンガル自治体
  フィンランド語が多数を占めるバイリンガル自治体
  スウェーデン語が多数を占めるバイリンガル自治体
  スウェーデン語モノリンガル自治体
  サーミ語とのバイリンガル自治体
※少数言語の話者が人口の8% (or 3000)を超えると「バイリンガル」自治体、
逆に6%を切ると「モノリンガル」自治体とされる。
wikipedia



他のあらゆる要因が考察の上排除され、サルミネン、ヨハンソン両博士がたどり着いたのは、事故率の違いは言語による認知の違いに帰す以外にない、という結論であった。

フィン語は他の欧州の言葉とは全く別系統で、事象の関係は名詞の格変化によって示される。たくさんの事象がある時、それらの間の時間順序が曖昧になる傾向がある。対してインド・ヨーロッパ語族のスウェーデン語では、前置詞後置詞を駆使することで、日常会話でも事象の時間関係は常に明確である。危険を伴う複雑な作業を順次行う場合、フィン語話者に比して、スウェーデン語話者のほうが、より時間順序の明確なメンタル・モデルを構築できて、労働安全上優位性があると考えられるのである。

異なった言語を知ることは、異なった世界の見え方を会得えとくすることである。全ての日本語話者が、最も日本語から遠い言語の一つである英語を、義務教育で教わるのは決して悪いことでは無い。読者諸氏が学校や受験で英語学習に費やした労苦やくやしさ、そして涙は、たとえ英語の熟達した話者となれなかったとしても、決して無駄ではない。ちょうど異国の料理の導入で食文化が豊かになるように、異国語の要素は一国の言語文化をより香り高い豊穣ほうじょうなものにするだろう。

言語習得による新たな認知能力の獲得は、別に外国語に限らない。同一言語であっても、初等教育で身につけるものと高等教育で接するものとは、別の言語体系といえるほど異なっている。高等教育のメリットの大部分は、おそらくはそこに由来しており、個々の学科での新知識の獲得ではないのだろう。言語心理学界の最近の研究の一つの焦点は、異なった社会階層における言語の違いと、認知機能の違いとの関係である。

言語と認知の関係の研究はいまだ発展途上にある。言語を含む人間活動の巨大電子データの蓄積とともに、それはより精密になっていくだろう。そして社会の安全性や利便性の向上に使われ、また知能犯罪や意識の操作に使われるだろう。オーウェルの「ダブルスピーク」風に自由の抑圧に用いられるかもしれない。

存在と意識を直接につなぐ社会的媒体である「言葉」に秘められた力は、未だみ尽くされていない。

いずれにせよ今後、その力のさらなる開示を、われわれが目にするだろう事は間違いない。


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(つづく)

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更新情報

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★2019年3月15日 全卓樹さん「南国科学通信」を更新しました! 
第15回 トロッコ問題の射程 | 
第14回 ペルシャとトルコと奴隷貴族 | 第13回 思い出せない夢の倫理学 | 第12回 シラード博士と死の連鎖分裂 | 第11回 ベクレル博士の遥かな記憶 | 第10回 ペイジランク――多数決と世評 | 第9回 多数決の秘められた力第8回 三人よれば文殊の知恵 | 第7回 付和雷同の社会学 | 第6回 確率と自由 | 第5回 流星群の夜に | 第4回 アリと自由 | 第3回 アリたちの晴朗な世界 | 第2回 世界の中心にすまう闇 | 「南国科学通信」第1回


★2018年6月16日 人類の夜明けをめぐる本棚会議 本棚会議vol.2『先史学者プラトン』刊行記念 前編 後編 
本棚案内 山本貴光+吉川浩満 井手ゆみこ(ジュンク堂書店人文書担当)


2017年11月22日 仲谷正史+傳田光洋+阿部公彦「触感 × 皮膚 × 文学 「触れること」をめぐる冒険」を公開しました! 

-----> これまでの連載のもくじはこちらです。

7.26.2019

第15回|トロッコ問題の射程|南国科学通信|

全卓樹
第15回 トロッコ問題の射程


吉良貴之きらたかゆき氏が語り始めた。

「トロッコ問題」について聞き及んだ人はどれくらいいるだろうか

新装なった高知市図書館「オーテピア」、最上階プラネタリウム横会場での、寒風にんだ師走しわすひと日の夕刻であった。「高知サイエンスカフェ」の講師は、東京の若き法哲学者である。

炭鉱の採掘現場でブレーキが壊れて暴走するトロッコが、線路の先の5人の鉱夫に向かっている。切り替え路線の向こうでは別な1人が線路上で作業中である。たまたま路線切替機の隣にいたあなたは、そのまま5人がかれ死ぬのを見過ごすか、レバーを引き路線を切替えて、本来無関係な1人の死を引き起こすかの選択を迫られている。あなたはどうするのか?


CC BY-SA 4.0 image created by McGeddon

3.15.2019

南国科学通信 第14回 ペルシャとトルコと奴隷貴族

全卓樹
第14回 ペルシャとトルコと奴隷貴族

言葉も風習も異なる遠方の人々の歴史書を読むのが好きである。奇異で不道徳で同時に美しく精妙な制度、何かが心に引っかかり記憶から消せない事物などが、そこには数多く記されている。

その一つに「マムルーク」がある。

中世から近世にかけてのイスラーム諸国でみられた、異民族の奴隷からなるエリート部隊の軍人のことで、各国の宮廷の守護の柱だったという。近世の三大陸に覇を唱えたオスマン大帝国のイェニチェリ軍団が有名であるが、エジプトの「奴隷王朝」のように自身が王となったマムルークもいた。

マムルークという不可解な制度がどう出来てきて、一体どのように運用されたのか、それを知るためには、千百年前のサーマーン朝ペルシャに(空想の中で)出かけねばならない。


Opening Folio of the 26th Volume of the "Anonymous Baghdad Qur'an"
A.H. 706/ A.D 1306–7
The Metropolitan Museum of Art 



サーマーン朝とはイスラム暦の2世紀半ば、西暦9世紀末に、今日のイラン東部からウズベキスタンにかけて存在した、ペルシャ語を喋る人々の国である。アラブの征服者に国を滅ぼされイスラム化したペルシャ人であったが、言葉と文化は残り人々も残り、二百年ののち元の場所より少し東に寄せて、新しい王朝が立ち上がったのだ。

ペルシャの国の東の果てには異教徒のトルコ系遊牧部族が住んでいた。騎馬に秀でた剽悍ひょうかんなトルコ人の襲撃は、文明的都市住民となっていたペルシャ人たちの悩みの種であった。このような場合の定石じょうせきは「を以て夷を制す」である。サーマーン朝ペルシャ人たちも当然定石を用いたのだが、そのやり方が独特であった。

ペルシャの奴隷商人がトルコ人の少年たちをさらってくる。サーマーン朝の役人が来て、その中から知能体力性格容貌すべてを厳しく選りすぐって買って行く。奴隷少年たちの行き先は特設の学校で、そこで彼らはコーランから武術まで、数学から詩まで、礼節から立ち振る舞いまでを学び、サーマーン朝に忠誠を誓うイスラーム戦士となるのである。軍功には昇進と封土が約束された。時をおかずサーマーン朝の精鋭軍は、兵卒から司令官までトルコ人戦士で満たされた。精鋭軍の行く手には常に勝利と栄光が待っていた。トルコ人奴隷たちは軍事貴族となり、イスラーム法官や官僚からなるペルシャ人貴族と並んで、サーマーン朝国家を支える二本柱の一つとなったのである。

サーマーン朝の東の辺境は安定し、国は西に向かって拡張した。往古のペルシャ帝国の版図はんとの大部分が回復された。これがマムルーク制度である。サーマーン朝の奴隷精鋭軍の評判はあっという間に広まり、マムルークはイスラーム世界全体に浸透した。



サーマーン朝の版図
wikipedia

奴隷から特権階級となったトルコ人たちは、宮廷にも影響力を持つようになり、国の政治を左右し始めた。サーマーン朝からアフガニスタンを分離して別王朝を立てたのも彼らである。しかしマムルークに許されていないことが一つだけあった。それは階級の世襲である。精鋭軍を精鋭に保つために、兵士は常に新たに辺境の異教徒から育てられねばならない。マムルークの子供達はイスラーム法官や国家官僚となって、一般のペルシャ人文官貴族と融合していった。マムルークは常に奴隷からきたえ上げられる一世代限りの存在なのである。

マムルークを絶やさないためには、常に新たな奴隷の供給が必要となる。サマルカンドやブハラといった東部の大都市には、どこも大規模な奴隷市場があった。ホレーズム地方の中心都市ヒヴァには、いまから百五十年前に奴隷制度が廃止されるまで、世界最大の奴隷市場が置かれていた。その遺構いこうは世界遺産となって今日見ることができる。

これらの市場を通じて大量のトルコ人が東から西へと流れていった。古代からペルシャ人の居住地だったすべての場所が、トルコ=ペルシャ融合世界へと姿を変えていった。世襲の文官貴族と一代限りの軍事貴族が並び立つ制度は、この世界融合の鍵であった。イスラーム全域の、場所ごと時代ごとの異なった辺境で、異なった異教徒からマムルークが作られた。アルメニア人、グルジア人、チェルケス人、ギリシャ人、アルバニア人、ブルガリア人。彼らの子孫は今では全て、イスラーム統合世界の市民である。



نهاية السؤل والامنية في تعلم أعمال الفروسية
أقصرائي، محمد بن عيسى بن إسماعيل الحنفي
A Mamluk manual on horsemanship, military arts and technology
the Qatar Digital Library


イスラーム世界は中世末期、人類文明の先頭に立っていたと考える人もいる。その香り高い文化と強力な軍事の背後には、まさにマムルーク制度という、一見奇怪な人種的職能的分業制があったのである。現在のわれわれが奉じている、平等と人権と民主主義の社会制度とは対極の、この不可思議な制度をどう考えたらよいのだろうか。

前近代社会の文脈でみれば、マムルーク制を「農耕民と遊牧民の対立」問題への、創造的でエレガントな解法だと考えることができる。なぜなら遊牧民に対して壁を立て買収し武力で対抗しても、ちょうど高まる津波に次々と堤防をせりあげて応じるように、いずれ巨大な決壊が予想されるからである。

今日多くの国で、異文化からの才能を取り込む事なしには、先端科学技術の発展も経済の活況も見込めなくなっている。現代人はこれを首尾よく行えるだろうか。万民平等主義の建前とは裏腹に、われわれの周囲で異民族カースト間の軋轢あつれきが生じ始めていないだろうか。マムルーク制を参考にしつつ、奴隷制度に代えてわれわれの道徳観に合う別な何かで、社会の異質な要素の親和と融合をめざす制度が設計できないものだろうか。

われわれにとってマムルークとは何か。これは思わぬ知見をもたらし得る、仲々なかなかに深い問いなのかもしれない。



Hizb (Litany) of An-Nawawi



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(つづく)

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2.12.2019

南国科学通信 第13回 思い出せない夢の倫理学

全卓樹
第13回 思い出せない夢の倫理学

人が夢からめたとき、思い出そうとする端から、夢は溶けるように去ってしまう。誰しも覚えがあるだろう。英国詩人サミュエル・テイラー・コールリッジは、夢の中で奇跡の長詩を授かったが、起床ののち全部は書き留めきれず、残された断章が神韻しんいん「クブラ・カーン」となった。

In Xanadu did Kubla Khan
A stately pleasure-dome decree :
Where Alph, the sacred river, ran
Through caverns measureless to man
Down to a sunless sea……

上都じょうとにて クブラ・カーンは 命じたり
豪奢ごうしゃなる 逸楽いつらくの宮 建つべしと
かの地には 聖なるアルフの 川流れ
人智には 数えおよばぬ ほこら抜け
日もなき海へ 落つると聞けり......

人は起床直後に、直近30秒ほどに見た夢を覚えているのがつねである、と京都大学の脳神経科学者、神谷之康かみたに・ゆきやす博士は語る。長大な夢も一瞬のような時間に圧縮されるのだろうか。