9.27.2014

渡し舟の上で:現存被曝状況から、現存被曝状況へ|安東量子+ジャック・ロシャール



渡し舟の上で

Sur la barque des passeurs

現存被曝状況から、現存被曝状況へ

entre deux situations d'exposition existante
――第1回――
安東量子+ジャック・ロシャール
Ryoko Ando et Jacques Lochard

「原発事故以降、福島を巡って巻き起こる声は、そこに住む人間にすれば、すべて、住民を置き去りにしたもののように感じられました。
誰もが、当事者をないがしろにして、何かを語りたがっている状況に、私は、強い違和感を感じました。おそらく、怒りと言っていいのだと思います。
私がこんな事をはじめた理由は、自分達のことは、自分達自身で語るしかないのだ、という思いが根底にあります。
ただ、そんな中、ICRP111だけが、私たちに寄り添ってくれたものであるように感じられました」

こう書いたのが、「福島のエートス」☆☆代表を務める安東量子さんでした。2012年3月のことです。

この文章にある「ICRP111」とは何でしょうか。民間の非営利団体である国際放射線防護委員会(ICRP)が、1986年に起きたチェルノブイリ原発事故後、放射性物質に汚染された土地で、そこに住む人々の回復 (rehabilitation)を模索した成果です。被災地域の住民や行政との対話を通してその任に当たった専門家たち──そのひとりがロシャールさんです──が、この文書を2009年にまとめました☆☆☆

邦題はたいへん長いもので、「原子力事故または放射線緊急事態後の長期汚染地域に居住する人々の防護に対する委員会勧告の適用」と言います。

安東さんとロシャールさんは、2011年の冬以降、この3年弱のあいだ、電子メールを使って、やがて直接顔を合わせることによって、対話を重ね、経験を共有してこられました。

ロシャールさんは、あるインタビューでこう語っています。

「私は川をはさんでこちら側と向こう側の岸を行き来する小さな船の渡守です。チェルノブイリと福島の橋渡し。それと福島と、広島、長崎とのあいだ。まだチェルノブイリ事故の教訓は完全に総括されていませんが、これからは福島に学ぶことが多い。現代から未来へ、二つの事故の記憶も伝えていきます」☆☆☆☆

この往復書簡「渡し舟の上で」では、おふたりの経験と思いを綴っていただく予定です。原子力発電所事故による災厄の、個人的な側面と集団的な側面の結節点が、読者にゆっくりと伝わることを念じています。〔編集部〕

Pour lire les textes français, cliquez ici.



親愛なるジャック


日本は長い梅雨の終わりにさしかかっています。先日、寝る前にふと自宅の玄関を開けたら、目の前に小さな黄緑色の光が浮かんでいました。一瞬なんのことかわからず、その後すぐに、それが蛍であることに気づきました。

あなたの国でも蛍は飛びますか? 日本では、蛍の光を亡くなった人の魂に喩える人もいます。私の亡くなった祖母がそうでした。かつて、彼女が話してくれたことがあります。

祖父を亡くした年の夏、親戚の家で夜更けまで話し込んだ帰り道、タクシーを降りた先に蛍が飛んでいたそうです。蛍は、家路を導くように玄関先までいざない、そして、その晩はずっと同じ場所で、時に光り、時に消えながらたたずんでいた。そう、祖母は笑いながら、私に話しました。その時の、幸せそうな安堵感をたたえた祖母の言葉は、今でもはっきりと私の耳に残っています。

「おばあさんな、ああ、おじいさんが帰ってきたんじゃ、と思ったんじゃ」。

私は、それまで、こうした物語を一切信じない人間でした。けれど、祖母の話を聞き、強く心に残ったこのエピソードに何度か思いを巡らせた後、考えを変えました。人の暮らしの豊穣さ、人間が生きることの本質は、こうした些細な物語のうちにあるのではないかと思うようになったからです。

今でも、私は、それが祖父の魂であったとは信じていません。けれど、それが嘘でも本当でもどちらでもいい、そう信じた祖母の語りと、その笑顔にこそ、なによりも大切なものがある、と、そう信じています。

私があなたに書く手紙の冒頭に、こんなことを書くのはなぜなのでしょう。

それは、私があなたと出会うことになった奥底には、こんなささやかな私的な経験が眠っているような気がするからです。


2012年の2月、福島県伊達市のICRPダイアログセミナーで、私があなたと最初に出会ったのは、大雪の日でした。普段は2時間程度で到着する道のりを、6時間もかけて、私は会場に到着したのでした。2011年3月の震災から、まだ1年経たないあの頃は、いまだ、それ以前には経験したことのない異常な緊張感に満たされていたことを思い出します。もしかすると怒声さえ飛び交うのではないかと感じさせる会場の席に、大幅に遅刻して座った私が感じていたことがわかりますか? 会場の暖房が効きすぎたり、効かなすぎたりすることを気にかけながら、私は、司会のあなた言うことが、なぜ、こんなに自分の思考と重なるのだろう、と不思議に思っていたのでした。

それよりも少し前、あなたが書いたICRP111勧告を、私が最初に読んだのは、2011年の10月頃だったと思います。評判では、哲学的で理解しがたいというそれを、私が読んでみる気になったのは、震災後の混乱の中で、とにかくどこかに道筋はないかと探し続けたいくつもの悪あがきのひとつでした。

私が、それまでに地元で小さな放射線の勉強会を開いていたことを、あなたはよくご存知ですね。それは、よくある、けれど、私なりに工夫をこらした放射線の正しい知識を得るための勉強会でした。地元の顔見知りに声をかけ、参加者を集めたその勉強会の経験を通じて、私が強く感じたのは、これは、私たちが必要としているものではない、ということでした。私たちに必要なのは、勉強のための知識ではなく、もっと現実に即した、自分たち自身の現実に向き合うための具体的な方途なのだと私は直感し、けれど、そのためにはどうすればいいのかわからず、その手がかりを探していたのでした。

本当のことを言えば、よくある行政文書のような堅苦しく、形式ばって、それでいて中身は薄い、そんな文書を想像していました。あまり、というよりも、ほとんどまったく期待せずに、当時、日本で目にすることができたICRP111勧告の抄訳版を一読し、私の予想は裏切られました。大きな驚きとともに、心に浮かんだ最初の感想は、「これは私たちのために書かれたものだ」というものでした。

私は、その頃、苛立ち、怒り、悲しみ、そうした暗い感情に満たされていました。なにか光になるものはないか、と探し続けていました。ICRP111勧告は、私が最初に見つけた光、と言っていいと思います。

細かな部分は理解できていなかったと思います。けれど、これが、原子力被災地の被災者のために書かれたものである、ということは、はっきりとわかりました。全体を通して、どこまでも、そこに住む人間にとって不利益にならないよう、それでいて、現実的に被災者の役に立つように、慎重な配慮が施されていることが、強く感じ取られました。同時に、ひどく不思議に思ったのでした。

なぜ、こうしたものが書かれることが可能となったのだろう? 専門家の団体であるというICRPから出された勧告であるのに、その視点は、十分すぎるほどに、そこに暮らす人間のものであるとしか思えなかったのです。

その理由が知りたくて、私が行き着いたのが、あなたがチェルノブイリ事故後10年を経て、ベラルーシで取り組んだというエートスプロジェクトでした。そのことについては、この先、あなたに語ってもらった方がいいですね、きっと。

そして、冒頭に書いた蛍に話を戻しましょう。

私が、ICRP111勧告の後ろに見たのは、無数の飛び交う蛍の光だったのだろうと思うのです。あなたが経験し、あなたが共に語り合ったベラルーシの人々の小さな小さなささやかな、それでいて力強く、時にか弱く、喜び、悲しみ、絶望、希望、あらゆる感情に満たされた、無数の物語。それらがあの勧告文の後ろに、静かに、けれど、はっきりと明滅しています。祖母が愛おしんだ蛍と、その光は、私の中で重なり、同じようにあたたかく光を放ちます。

私は、その豊穣さを抱きしめます。なによりも、信ずるに値するものとして。

2014年7月11日

台風が素通りした日に

安東量子