渡し舟の上で
Sur la barque des passeurs現存被曝状況☆から、現存被曝状況へ
entre deux situations d'exposition existante
――第1回――
安東量子+ジャック・ロシャール
Ryoko Ando et Jacques Lochard
「原発事故以降、福島を巡って巻き起こる声は、そこに住む人間にすれば、すべて、住民を置き去りにしたもののように感じられました。
誰もが、当事者をないがしろにして、何かを語りたがっている状況に、私は、強い違和感を感じました。おそらく、怒りと言っていいのだと思います。
私がこんな事をはじめた理由は、自分達のことは、自分達自身で語るしかないのだ、という思いが根底にあります。
ただ、そんな中、ICRP111だけが、私たちに寄り添ってくれたものであるように感じられました」
こう書いたのが、「福島のエートス」☆☆代表を務める安東量子さんでした。2012年3月のことです。
この文章にある「ICRP111」とは何でしょうか。民間の非営利団体である国際放射線防護委員会(ICRP)が、1986年に起きたチェルノブイリ原発事故後、放射性物質に汚染された土地で、そこに住む人々の回復 (rehabilitation)を模索した成果です。被災地域の住民や行政との対話を通してその任に当たった専門家たち──そのひとりがロシャールさんです──が、この文書を2009年にまとめました☆☆☆。
邦題はたいへん長いもので、「原子力事故または放射線緊急事態後の長期汚染地域に居住する人々の防護に対する委員会勧告の適用」と言います。
安東さんとロシャールさんは、2011年の冬以降、この3年弱のあいだ、電子メールを使って、やがて直接顔を合わせることによって、対話を重ね、経験を共有してこられました。
ロシャールさんは、あるインタビューでこう語っています。
「私は川をはさんでこちら側と向こう側の岸を行き来する小さな船の渡守です。チェルノブイリと福島の橋渡し。それと福島と、広島、長崎とのあいだ。まだチェルノブイリ事故の教訓は完全に総括されていませんが、これからは福島に学ぶことが多い。現代から未来へ、二つの事故の記憶も伝えていきます」☆☆☆☆
この往復書簡「渡し舟の上で」では、おふたりの経験と思いを綴っていただく予定です。原子力発電所事故による災厄の、個人的な側面と集団的な側面の結節点が、読者にゆっくりと伝わることを念じています。〔編集部〕
誰もが、当事者をないがしろにして、何かを語りたがっている状況に、私は、強い違和感を感じました。おそらく、怒りと言っていいのだと思います。
私がこんな事をはじめた理由は、自分達のことは、自分達自身で語るしかないのだ、という思いが根底にあります。
ただ、そんな中、ICRP111だけが、私たちに寄り添ってくれたものであるように感じられました」
こう書いたのが、「福島のエートス」☆☆代表を務める安東量子さんでした。2012年3月のことです。
この文章にある「ICRP111」とは何でしょうか。民間の非営利団体である国際放射線防護委員会(ICRP)が、1986年に起きたチェルノブイリ原発事故後、放射性物質に汚染された土地で、そこに住む人々の回復 (rehabilitation)を模索した成果です。被災地域の住民や行政との対話を通してその任に当たった専門家たち──そのひとりがロシャールさんです──が、この文書を2009年にまとめました☆☆☆。
邦題はたいへん長いもので、「原子力事故または放射線緊急事態後の長期汚染地域に居住する人々の防護に対する委員会勧告の適用」と言います。
安東さんとロシャールさんは、2011年の冬以降、この3年弱のあいだ、電子メールを使って、やがて直接顔を合わせることによって、対話を重ね、経験を共有してこられました。
ロシャールさんは、あるインタビューでこう語っています。
「私は川をはさんでこちら側と向こう側の岸を行き来する小さな船の渡守です。チェルノブイリと福島の橋渡し。それと福島と、広島、長崎とのあいだ。まだチェルノブイリ事故の教訓は完全に総括されていませんが、これからは福島に学ぶことが多い。現代から未来へ、二つの事故の記憶も伝えていきます」☆☆☆☆
この往復書簡「渡し舟の上で」では、おふたりの経験と思いを綴っていただく予定です。原子力発電所事故による災厄の、個人的な側面と集団的な側面の結節点が、読者にゆっくりと伝わることを念じています。〔編集部〕
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親愛なるジャック
日本は長い梅雨の終わりにさしかかっています。先日、寝る前にふと自宅の玄関を開けたら、目の前に小さな黄緑色の光が浮かんでいました。一瞬なんのことかわからず、その後すぐに、それが蛍であることに気づきました。
あなたの国でも蛍は飛びますか? 日本では、蛍の光を亡くなった人の魂に喩える人もいます。私の亡くなった祖母がそうでした。かつて、彼女が話してくれたことがあります。
祖父を亡くした年の夏、親戚の家で夜更けまで話し込んだ帰り道、タクシーを降りた先に蛍が飛んでいたそうです。蛍は、家路を導くように玄関先までいざない、そして、その晩はずっと同じ場所で、時に光り、時に消えながらたたずんでいた。そう、祖母は笑いながら、私に話しました。その時の、幸せそうな安堵感をたたえた祖母の言葉は、今でもはっきりと私の耳に残っています。
「おばあさんな、ああ、おじいさんが帰ってきたんじゃ、と思ったんじゃ」。
私は、それまで、こうした物語を一切信じない人間でした。けれど、祖母の話を聞き、強く心に残ったこのエピソードに何度か思いを巡らせた後、考えを変えました。人の暮らしの豊穣さ、人間が生きることの本質は、こうした些細な物語のうちにあるのではないかと思うようになったからです。
今でも、私は、それが祖父の魂であったとは信じていません。けれど、それが嘘でも本当でもどちらでもいい、そう信じた祖母の語りと、その笑顔にこそ、なによりも大切なものがある、と、そう信じています。
私があなたに書く手紙の冒頭に、こんなことを書くのはなぜなのでしょう。
それは、私があなたと出会うことになった奥底には、こんなささやかな私的な経験が眠っているような気がするからです。
2012年の2月、福島県伊達市のICRPダイアログセミナーで、私があなたと最初に出会ったのは、大雪の日でした。普段は2時間程度で到着する道のりを、6時間もかけて、私は会場に到着したのでした。2011年3月の震災から、まだ1年経たないあの頃は、いまだ、それ以前には経験したことのない異常な緊張感に満たされていたことを思い出します。もしかすると怒声さえ飛び交うのではないかと感じさせる会場の席に、大幅に遅刻して座った私が感じていたことがわかりますか? 会場の暖房が効きすぎたり、効かなすぎたりすることを気にかけながら、私は、司会のあなた言うことが、なぜ、こんなに自分の思考と重なるのだろう、と不思議に思っていたのでした。
それよりも少し前、あなたが書いたICRP111勧告を、私が最初に読んだのは、2011年の10月頃だったと思います。評判では、哲学的で理解しがたいというそれを、私が読んでみる気になったのは、震災後の混乱の中で、とにかくどこかに道筋はないかと探し続けたいくつもの悪あがきのひとつでした。
私が、それまでに地元で小さな放射線の勉強会を開いていたことを、あなたはよくご存知ですね。それは、よくある、けれど、私なりに工夫をこらした放射線の正しい知識を得るための勉強会でした。地元の顔見知りに声をかけ、参加者を集めたその勉強会の経験を通じて、私が強く感じたのは、これは、私たちが必要としているものではない、ということでした。私たちに必要なのは、勉強のための知識ではなく、もっと現実に即した、自分たち自身の現実に向き合うための具体的な方途なのだと私は直感し、けれど、そのためにはどうすればいいのかわからず、その手がかりを探していたのでした。
本当のことを言えば、よくある行政文書のような堅苦しく、形式ばって、それでいて中身は薄い、そんな文書を想像していました。あまり、というよりも、ほとんどまったく期待せずに、当時、日本で目にすることができたICRP111勧告の抄訳版を一読し、私の予想は裏切られました。大きな驚きとともに、心に浮かんだ最初の感想は、「これは私たちのために書かれたものだ」というものでした。
私は、その頃、苛立ち、怒り、悲しみ、そうした暗い感情に満たされていました。なにか光になるものはないか、と探し続けていました。ICRP111勧告は、私が最初に見つけた光、と言っていいと思います。
細かな部分は理解できていなかったと思います。けれど、これが、原子力被災地の被災者のために書かれたものである、ということは、はっきりとわかりました。全体を通して、どこまでも、そこに住む人間にとって不利益にならないよう、それでいて、現実的に被災者の役に立つように、慎重な配慮が施されていることが、強く感じ取られました。同時に、ひどく不思議に思ったのでした。
なぜ、こうしたものが書かれることが可能となったのだろう? 専門家の団体であるというICRPから出された勧告であるのに、その視点は、十分すぎるほどに、そこに暮らす人間のものであるとしか思えなかったのです。
その理由が知りたくて、私が行き着いたのが、あなたがチェルノブイリ事故後10年を経て、ベラルーシで取り組んだというエートスプロジェクトでした。そのことについては、この先、あなたに語ってもらった方がいいですね、きっと。
そして、冒頭に書いた蛍に話を戻しましょう。
私が、ICRP111勧告の後ろに見たのは、無数の飛び交う蛍の光だったのだろうと思うのです。あなたが経験し、あなたが共に語り合ったベラルーシの人々の小さな小さなささやかな、それでいて力強く、時にか弱く、喜び、悲しみ、絶望、希望、あらゆる感情に満たされた、無数の物語。それらがあの勧告文の後ろに、静かに、けれど、はっきりと明滅しています。祖母が愛おしんだ蛍と、その光は、私の中で重なり、同じようにあたたかく光を放ちます。
私は、その豊穣さを抱きしめます。なによりも、信ずるに値するものとして。
2014年7月11日
台風が素通りした日に
安東量子
台風が素通りした日に
安東量子
親愛なる量子さん
先日はお手紙をありがとう。休暇を過ごしている場所からお返事します。7月は1ヵ月間まるまる非常に忙しく、最後の週は国際放射線防護委員会(ICRP)*1第4委員会*2の同僚たちと共に過ごしていたのですが、今ようやく一息つくことができます!
昨年の10月以来、私はもはや第4委員会の委員長ではないのですが、私の後任が、グループの年4回の会議に参加するよう招いてくれたのです。その招きには一瞬の躊躇もなく応じました。なにしろ、第4委員会の仕事はやりがいがあるのです。この委員会においてこそ、ICRPの一般的な推奨事項を実地に適用するための勧告を練り上げる作業がおこなわれるのですから。そこでの仕事には、放射線防護*3システムの骨組みに相当する諸概念や諸法則を熟知していることが欠かせませんが、併せて現場の経験も求められます。われわれ放射線防護のプロフェッショナルにとって、第4委員会の仕事に貢献するのは本当に、自分の肥やしになることであると同時に、成果を形にするということでもあるのです。
こういうわけで、仕事に捧げた7月の最後の週をじっくり味わった上で、私は夏休みに入りました。待ちに待った休暇です。実際、ここ数ヵ月の間にたまった疲労がいよいよ限界に達し始めていました。
フランスにも蛍(リュシオル)はいるか、飛んでいるのを見かけるか、という質問でしたね。私は昆虫のことにあまり詳しくないのですが、ええもちろん、見かけることがあると思います。少なくとも「ヴェール・リュイザン(光る虫)」なら、私自身も知っています。これも蛍の一種で、リュシオルとほとんど何も違わないはずです。さて、蛍をめぐって、あなたはあなたのお祖母さまの想い出を語ってくれましたね。私の場合はというと、──あなたのニッコリする様子が目に浮かびます…──私がヴェール・リュイザン(蛍)で思い出すのは曾祖母のことです。
子供の頃、私は毎年、夏休みを曾祖母の家で過ごしました。その家は、私が両親と共に住んでいた所から20キロほど離れた、川沿いの小さな村にありました。毎週、金曜日の夜になると、1週間の仕事を終えた両親が私に会いに来てくれ、みんなでいっしょに週末を田舎で過ごしたのでした。ですから金曜日には必ず、日が暮れた頃、曾祖母と私は連れだって、村の入口の方へ徒歩で両親を迎えに行きました。村のいちばん端の家と、その家を照らす街灯のところを過ぎてもなお、私たちは深い夜陰の中、村につながっている唯一の道路を歩きました。前方に拡がる平原の尽きる彼方に1台の車のヘッドライトが現れるのを待ち望みながら、でした。もちろん、それが私の両親の車であることを期待していたのです。そんなとき、道路の路肩の方に蛍を見かけることが稀ではありませんでした。白状すると、最初の数回は、空中で揺れ動くそれらの小さな光に私は少し怯え、曾祖母にすがりついたのでした。が、やがて私も慣れました。光る蛍たちはいわば、〈待ち望み〉に付き合ってくれる仲間となったのでした。
かつてはそんなこともあったのですが、私が蛍を見かけなくなってからすでに久しいです。都市があまりに明るいため、なかなか蛍に出会えなくなったと言えそうです。
あなたはICRPの2009年の出版物(ICRP Publ. 111)〔以下「ICRP 111」〕*4に言及し、一読して自分たち福島県の「低線量汚染地域に居住する被災者」のために書かれた文書だと強く感じたと述べてくれました。その記述に強く感動しました。なぜなら、ICRPのワーキンググループの同僚たちに助けられながらあの文書を作成したとき、私の脳裡には常に、長い年月にわたっていっしょに仕事したベラルーシの人びとのことが、まさにあなたが「ベラルーシの人びとの……無数の物語」と呼んでくれたものがあったからです。同僚たちもまた、ベラルーシの人びとの物語に加えて、イギリスやノルウェーの人びとのそれを憶えていました。もちろん、公式文書の中でそれらの物語を語るのは論外でした。目標はあくまで、放射線防護委員会が積み重ねてきていた 勧告の伝統に則って専門的な文書をまとめ上げることでした。しかし、ひとつの具体的な経験を伝えるのだという考えも、われわれ執筆スタッフの念頭にしっか り存在していたのです。
われわれがそれぞれ現場で体験したすべてのことを脇に置いておいたのでは、適切なトーンを見出すのは無理でした。われわれは、将来もしかすると起こり得る事故の被災者たちに向けて書いているのだ、したがって技術的な推奨事項のカタログのようなものの提示に甘んずるわけにはいかないのだと意識していました。原則と基準の列挙を超えて、事故後に発生する状況の人間的次元が垣間見られるようにしておくことが重要でした。さもないと、同じような状況が再発生した場合に、その当事者が読んでも、文書の内容を自分たちのこととして受け止めることができないだろうと思われたのです。とはいえ、今日なお、私は驚嘆しています。原発事故後の状況において人間的な面で何が問われるかという点をそれとなく示唆するいくつかの断片的なフレーズがあなたという読者を得るやいなや、本当にあなたの心に響いたという事実に──。
実のところ、ICRP 111に特別な注意を払うことがあり得たのは、原発事故の結果に直面した人びとだけです。思うに、もし福島の事故が起きていなかったなら、あの文書が推奨したことは当局と放射線防護の専門家たちの関心の対象となるのがせいぜいで、けっして一般の人びとの注意を惹くことはなかったでしょう。事故直後の数週間、数ヵ月間、論議は線量の基準をどうしたらよいかという問いと、汚染地域における放射線の影響を食い止めるために公表していくべき答えに集中しました。その結果、ICRPのさまざまな勧告に多かれ少なかれ影響された一連の決定が下されました。しかし、当局も専門家たちも、ICRP 111において提案されている対処方法をまじめに考えてみることはありませんでしたね。エートス・プロジェクト*5の経験に直接学んだ提案だったのですけれども。
事故後、私が任務を帯びて訪日したのは2011年の9月が最初で、放射線が持ち得る健康への影響について福島県立医大で開催されたシンポジウム*6に参加するのが目的でした。そのシンポジウムで私はICRP 111を紹介したのですが、その際、被災した人びとが事故後の状況の立て直しに自ら参加し、役割を担っていくということに関するチェルノブイリの教訓を強調しました。私のプレゼンテーションに、シンポジウムの参加者たちは何ら特別な反応を示さず、一部の参加者たちは懐疑的な様子でさえありました。ですから実は、そのシンポジウムの数週間後にICRPの日本人の同僚たちと共にベラルーシ視察をおこなって初めて、エートスという試みは関心を呼び始めたのでした。
その後の経緯については、あなたも私同様に熟知しておられる。11月末に福島でのICRPの最初の対話セミナーが開かれ*7、それがあなたの目をICRP 111に向けたのでした。
エートス・プロジェクトについて語るよう、あなたに促されました。もちろん、語るべきことはたくさんあります。プロジェクト自体についても、それが2000年代に「コア(CORE)」*8というプログラムにどう延長されたのかということについても、また、そのプロジェクトに対して起こった抵抗や、ぶつけられて来た批判についても。今回の手紙では、プロジェクトがどこからどうして生まれたのかということについてだけお話しするにとどめます。なにしろあなたが、私をエートス・プロジェクトの生みの親であるかのように言ってくれるものだから……。実際には私は、あの集団的な試みを担ったメンバーに1人にすぎないのです。
エートス・プロジェクトの理念は、1990年代の初めにウクライナとベラルーシへ赴き、チェルノブイリ原発の事故で被災した村人たちの間で数週間を過ごした2人のフランス人エキスパートが明らかにした事実から生まれました。すなわち、事故から5年が経過し、災禍を最小限に見せるために行政がさまざまな手を尽くしたにもかかわらず、汚染地域に残った住民たちは自分たちが見捨てられていると感じ、自分たちの将来や、特に子どもたちの将来を非常に不安に思っていたという事実です。被災者たちはもはや当局や専門家を信頼していないだけでなく、それに加えて、
この事実は、事故の社会的・経済的影響を調べるために、欧州委員会の支援の下、EU、ベラルーシ、ロシア、ウクライナの専門家たちをつないでおこなわれた共同研究のフレームの中で明らかになりました。私はその共同研究のコーディネーターではあったものの、あまり前面には出ず、特に汚染地域を再訪するのを控えていました。その地域には、1990年の夏、国際原子力機関(IAEA)*9に先導されたチェルノブイリについての国際プロジェクトに関与した際に行ったことがありました。再訪を控えたのは、いうまでもなく、放射線を怖れたからではありません。そうではなくて、当時私は、ベラルーシ、ロシア、ウクライナの責任者たちを相手に、財政的・行政的な面で単に骨が折れるというだけではない不愉快な交渉をしなければならなくなるのを免れるべく、共同研究の指揮を同僚のある女性に委任していたからです。
共同研究の成果は、チェルノブイリ事故からちょうど10年目の1996年4月にミンスクで開催された国際会議で発表されました。その発表の機会に、フランス人専門家のうちの1人が、会議に出席していた欧州委員会とベラルーシのそれぞれの代表者たちに対し、低線量汚染地域にまともな生活条件を取り戻すことを目的として、当該地域の住民と行政当局の積極的な関与に期待するまったく新しいやり方を採ってみてはどうかと示唆したのです。その考え方が好意的に受け止められ、多分野をカバーできるチームが速やかに構成されました。私の同僚のティエリ〔・シュナイダー〕*10と私自身も、放射線防護の専門家として組み入れられました。積極的な参加意思のある村を見つけるための現地調査が5月におこなわれ、その後の同年7月、ウクライナとの国境に近いベラルーシ南部のオルマニという村でエートス・プロジェクトはスタートしました。そして、計5年続き、2001年11月にベラルーシのストリンという小さな町でセミナーを開催することで終わりを告げました。ストリンは同名の地域の中心の町で、その地域にオルマニも、1999年からプロジェクトに参加した他の4つの村も所在しているのです。
以上が、エートス・プロジェクト生成の経緯です。その後の発展については、次回以降の書簡の中できっと述べる機会があるでしょう。また、私がベラルーシの人びとと共有した数々の物語、あなたがICRP 111の一般化された記述の背後に察知してくれた物語のうちのいくつかも、私たちの今後のやり取りの中で改めて想起する折があるだろうと思います。
ICRP 111について、またエートス・プロジェクトについてよりよく知るべく、あなたが手紙をくれたことに感謝します。が、それにもまして私があなたに御礼を言いたいのは、エートスに触発されたあなたが〔福島県〕いわき市
お暇なときにでも、またお便りをください。
匆々。
ジャックより
(邦訳=堀茂樹)
ジャックより
(邦訳=堀茂樹)
La traduction française (Traduite par Shigeki Hori) et le texte original:
(仏訳と仏語原文|仏訳=堀茂樹):
le 11 juillet 2014
Cher Jacques,
Ici au Japon, la longue période de pluie est en train de se terminer. L'autre soir, en ouvrant fortuitement la porte principale de ma maison avant de me coucher, j'ai vu en face de moi flotter une petite lumière jaune-verte. Surprise un instant, je me suis aperçue aussitôt qu'il s'agissait d'une luciole.
Les lucioles volent-elles aussi dans ton pays ? Certains Japonais comparent leurs lumières aux âmes des personnes décédées. Ce fut le cas de ma défunte grand-mère. Je me souviens de ce qu'elle m'a raconté :
Un jour de l'été de l'année où elle a perdu son mari, rentrée de la maison d'un de ses proches parents avec lequel elle avait eu une conversation jusqu'aux heures tardives, et en sortant du taxi qu'elle avait pris, elle a vu une luciole flotter devant elle. Cette luciole l'a conduite, tel un guide, jusqu'à la porte de chez elle, et est demeurée là toute la nuit, tantôt brillante, tantôt éteinte. La parole qu'elle a prononcée alors était pleine d'un soulagement, voire d'un sentiment de bonheur ; elle est aujourd'hui encore bien présente à mes oreilles : « Moi, m'a dit grand-mère en riant, je me suis dis que mon mari était de retour. »
Jusque-là, j'étais de celles qui ne croyaient absolument pas à ce genre de récit. Mais, depuis que j'ai entendu cet épisode de ma grand-mère qui m'a laissé une impression forte et que j'y ai réfléchi à plusieurs reprises, j'ai changé d'avis. Car j'en suis arrivée à me demander si la richesse de la vie humaine, voire son essence même, ne résidait pas en vérité dans de pareilles histoires apparamment sans importance.
Certes, à présent comme avant, je ne crois pas que ce fût véritablement l'âme de mon grand-père ; mais, je suis intimement convaincue que, indifféremment de la question, finalement peu importante, de savoir si c'était conforme au fait objectif ou non, le récit et le sourire de ma grand-mère étaient porteurs des choses qui sont des plus chères pour nous, êtres humains.
Pourquoi ai-je commencé par une telle évocation la présente lettre que je t'adresse ?
En fait, j'ai le sentiment qu'au fond du destin qui m'a fait te rencontrer gisent un certain nombre de petites expériences privées telles que celle que je viens de décrire.
Nous nous sommes rencontrés lors du Dialogue de la CIPR qui, en février 2012, avait lieu dans la ville de Date (Préfecture de Fukushima). Ce fut le jour d'une grande chute de neige. Pour parvenir à la salle de réunion j'ai dû voyager pendant six heures, alors que, d'ordinaire, c'est un trajet d'environ deux heures. Une année entière ne s'était pas encore écoulée depuis le désastre sismique de mars 2011 ; j'étais à cette période remplie d'une tension extraordinaire que je n'avais jamais connue jusque-là. Pourrais-tu deviner le sentiment que j'ai éprouvé après être arrivée avec un grand retard et une fois installée à ma place ? Tout en me préoccupant du fonctionnement instable du chauffage de la salle, je me demandais pourquoi ce que tu disais en présidant la séance s'accordait si parfaitement avec ma propre pensée.
Ce fut un peu auparavant, vers le mois d'octobre 2011 je crois, que j'ai pour la première fois lu la Publication CIPR 111. Si j'ai eu alors l'intention d'essayer de lire ce document qui avait la réputation d'être en quelque sorte "philosophique" et difficile à comprendre, c'était pour ma part une des tentatives désespérées de chercher la piste susceptible de nous aider dans le désordre qui a suivi le désastre.
Tu sais maintenant fort bien que j'organisais jusqu'alors de petites réunions locales ayant pour but d'apprendre ce qu'est la radioactivité. Ces réunions informelles n'avaient alors rien d'original ; c'était là des tentatives parmi d'autres d'acquérir les connaissances correctes sur la radioactivité. Je me suis néanmoins ingéniée pour qu'elles soient réussies, en m'activant pour faire en sorte que mes voisins y participent. Or ce que j'ai ressenti à travers les expériences de ces réunions, ce fut que celles-ci ne correspondaient pas à ce dont nous avions besoin. Mon intuition était que nous avions besoin, non pas de connaissances scientifiques abstraites, mais de moyens concrets plus pratiques, et qui, de ce fait, pouvaient nous permettre de nous mettre en face de la réalité quotidienne qui était devenue la nôtre. Mais ne sachant pas que faire dans cette situation-là, je cherchais une piste...
J'ose ici avouer que je m'attendais à un document qui, à l'instar de beaucoup de documents technico-administratifs, soit cérémonieux, formaliste et très peu enrichissant dans son contenu. Ce fut donc sans grand espoir ou plutôt sans aucun espoir que j'ai abordé la traduction japonaise abrégée de la Publication CIPR 111. Celle-ci a trompé complètement mon attente. Avec un grand étonnement, m'est venu alors à l'esprit l'idée suivante : « Ceci est écrit expressément pour nous. »
A cette période, j'étais pleine de sentiments sombres comme de l'irritation, de la colère, de la tristesse. Et je cherchais sans cesse ce qui pourrait m'apporter de la lumière. Il ne serait pas exagéré de dire que la Publication CIPR 111 était la première source de lumière que j'avais enfin trouvée.
Je suis consciente que, probablement, je n'en avais pas alors correctement compris les détails. Cependant, j'ai vu clairement qu'elle avait été écrite à l'intention véritable des sinistrés des régions contaminées par la radioactivité. Et j'ai senti au plus haut point que, dans toutes les pages, et sans relâche, l'auteur de la Publication CIPR 111 avait mis le soin nécessaire afin qu'elle soit réellement utile pour les personnes sinistrées.
Comment se fait-il, me demandais-je alors, qu'un tel document ait pu être écrit ? En effet, alors que c'était des recommandations émises par une association de scientifiques spécialistes, il me semblait incontestable que son point de vue épousait d'une manière plus que suffisante celui des habitants de la région contaminée.
Désireuse de trouver une réponse à mon interrogation, j'ai été amenée à prendre connaissance du projet d'Éthos dont tu as pris l'initiative en Biélorussie dix ans après l'accident de Tchernobyl. Mais, sans aucun doute, pour en parler davantage, vaudrait-il mieux je te laisse à présent la parole.
Revenons donc aux lucioles du début.
Je pense que ce que j'ai aperçu au-delà de la Publication CIPR 111, c'était la lumière des lucioles innombrables qui flottaient. Je veux dire par là les histoires innombrables des gens de la Biélarussie que tu as fréquentés et avec qui tu as dialogué. Pour menues qu'elles soient, ces histoires apparaissent tantôt solides, tantôt vulnérables, toujours remplies de toutes sortes de sentiments tels que la joie, la tristesse, le désespoir, l'espérance. Derrière la Publication CIPR 111 clignotent ces lumières, silencieuses mais aussi évidentes. Ces lumières-là se confondent en moi avec celle de la luciole aimée de ma grand-mère.
J'embrasse la fécondité de ces lumières douces. Comme une chose la plus digne de foi.
Bien cordialement,
Ryoko Ando
(Lettre écrite le jour où un typhon annoncé est passé proche d'elle sans causer aucun dégat.)
Ryoko Ando
(Lettre écrite le jour où un typhon annoncé est passé proche d'elle sans causer aucun dégat.)
Le 4 août 2014
Chère Ryoko,
C'est depuis le lieu de mes vacances que je réponds à ta dernière lettre. Après un mois de juillet très chargé, dont la semaine dernière passée avec mes collègues du Comité 4 de la CIPR, je peux enfin lever le pied!
Bien que je ne sois plus le président du Comité depuis octobre dernier, j'ai été invité par mon successeur à participer à la réunion annuelle du groupe. Je n'ai pas hésité un instant pour répondre à cette invitation car les travaux du Comité 4 sont passionnants. C'est en effet en son sein que s'élaborent les publications qui mettent en application les recommandations générales de la Commission. Le travail fait appel à la connaissance approfondie des concepts et des principes qui structurent le système de radioprotection mais également à l'expérience de terrain. Pour un professionnel de la radioprotection, contribuer aux travaux du Comité 4 est vraiment un enrichissement et aussi un aboutissement.
Bref, j'ai savouré cette dernière semaine de travail avant la pause estivale que j'attendais avec impatience car la fatigue accumulée au cours des derniers mois commençait à se faire sentir.
Tu me demandes si les lucioles volent aussi en France. Je ne suis pas très féru en matière d'insectes mais je pense que oui. En tout cas je connais les vers luisants qui, je crois, font partie de la même famille. A propos des lucioles tu évoques un souvenir avec ta grand-mère. Tu vas certainement sourire car moi j'associe les vers luisants au souvenir de mon arrière grand-mère!
Quand j'étais enfant je passais mes vacances d'été auprès de cette dernière qui habitait un petit village au bord d'une rivière à une vingtaine de kilomètres de là où je résidais avec mes parents. Tous les vendredis soirs, quand leur semaine de travail était finie, mes parents venaient me retrouver et nous passions le week-end tous ensemble à la campagne. Et bien, chaque vendredi soir, quand la nuit était tombée, nous partions à pieds mon arrière grand-mère et moi à la rencontre de mes parents. Quand nous avions dépassé la dernière maison et la lampe pâlotte qui l'éclairait, nous marchions dans la nuit profonde sur la seule route amenant au village, dans l'attente de voir émerger au loin en bordure de la plaine les feux d'une voiture. En espérant bien sûr que ce serait celle de mes parents. Il n'était pas rare de rencontrer sur les à-côtés de la route des vers luisants. Je dois avouer que les premières fois je n'étais pas très rassuré par ces petites lumières vacillantes et je me serrais contre mon arrière grand-mère. Puis j'ai fini par m'habituer à ces compagnons de l'attente.
Cela dit, voilà bien longtemps que je n'ai plus rencontré de vers luisants, mais il est vrai que les lumières de la ville ne sont guère propices à de telles rencontres…
Tu évoques la Publication 111 et le sentiment que tu as ressenti en la lisant qu'elle avait été écrite pour vous les « sinistrés des régions contaminées » de la Préfecture de Fukushima. Cela me touche beaucoup parce qu'en écrivant ce texte avec l'aide de mes collègues du groupe de travail de la CIPR, j'avais toujours présent à l'esprit ce que tu nommes les « histoires innombrables des gens de la Biélorussie » avec lesquels j'avais travaillé tant d'années. Bien sûr il n'était pas question de raconter ces histoires car l'objectif était d'écrire un texte à caractère technique dans la tradition des publications de la Commission. Mais l'idée de transmettre une expérience était bien présente à nos esprits.
Cela n'a pas été aisé de mettre de côté tout ce que nous avions vécu les uns et les autres et de trouver la bonne tonalité. Nous étions conscients que nous nous adressions aux victimes d'un éventuel futur accident et que nous ne pouvions nous contenter de présenter un catalogue de recommandations techniques. Il était important qu'au delà de l'énumération de principes et de critères nous laissions entrevoir les dimensions humaines de la situation post-accidentelle afin que des lecteurs concernés par une telle situation au cas où elle se reproduirait s'y retrouvent. Je reste encore étonné aujourd'hui par le fait que les quelques bribes de phrases qui évoquent de façon allusive les enjeux d'une telle situation sur le plan humain aient trouvé immédiatement un écho chez toi.
En fait l'attention portée à la Publication 111 ne pouvait venir que de personnes directement confrontées aux conséquences d'un accident nucléaire. Car je pense que si il n'y avait pas eu l'accident de Fukushima les recommandations de cette publication seraient restées une sorte de curiosité pour les autorités et les professionnels de la radioprotection et n'auraient jamais attiré l'attention du public. Dans les semaines et les premiers mois qui ont suivi l'accident les débats se sont focalisés sur les critères de dose et les réponses techniques à mettre en œuvre pour limiter les conséquences radiologiques dans les territoires affectés. Il en est résulté toute une série de décisions plus ou moins influencées par les recommandations de la CIPR. Mais les autorités et les experts n'ont jamais vraiment considéré sérieusement la démarche proposée dans la Publication 111, directement inspirée par l'expérience du projet Ethos.
Je me souviens que lors de ma première mission au Japon après l'accident en septembre 2011 pour participer au symposium organisé à l'Université Médicale de Fukushima sur les risques sanitaires des radiations, j'avais présenté la Publication 111 en insistant sur les leçons de Tchernobyl concernant l'engagement des personnes affectées dans la réhabilitation post-accidentelle. Ma présentation n'avait suscité aucune réaction particulière parmi les participants, voire de l'incrédulité chez certains. En fait, ce n'est qu'après la mission effectuée en Biélorussie quelques semaines après le symposium avec mes collègues japonais de la CIPR que la démarche Ethos a commencé à susciter un intérêt. Ensuite tu connais l'histoire aussi bien que moi : l'organisation fin novembre du premier Dialogue CIPR à Fukushima, suivi de l'audition publique au ministère de l'environnement qui a attiré ton attention sur la Publication 111 et le projet Ethos.
A propos de ce projet, dont tu m'invites à en parler, il y a évidemment beaucoup de choses à dire. Sur le projet lui-même, mai aussi sur son prolongement dans le programme CORE au cours des années deux milles ainsi que sur les résistances et les critiques qu'il a suscités. Je me contenterai dans cette lettre d'en évoquer la genèse car tu m'accordes gentiment la paternité du projet Ethos alors que je n'ai été qu'un des protagonistes de cette aventure collective.
L'idée du projet Ethos est née du constat établi par deux experts français, qui avaient passé plusieurs semaines au début des années 90 parmi la population de villages affectés par l'accident de Tchernobyl en Ukraine et en Biélorussie, que 5 années après l'accident et malgré tous les efforts déployés par les pouvoirs publics pour minimiser ses conséquences, les habitants qui étaient restés dans les territoires contaminés se sentaient abandonnés et étaient très inquiets quant à leur avenir et en particulier celui de leurs enfants. Non seulement ils n'avaient plus confiance dans les autorités et les experts mais ils avaient de plus le sentiment d'être exclus de la nation et d'avoir perdu le contrôle sur leur vie quotidienne. Malgré cette situation très sombre la grande majorité des villageois exprimaient cependant un fort attachement à leur terre natale et souhaitaient rester dans leurs villages.
Ce constat avait été établi dans le cadre d'un projet de recherche conjoint entre experts européens, biélorusses, russes et ukrainiens, soutenu par la Commission européenne sur les conséquences sociales et économiques de l'accident. Bien que coordinateur de ce projet, j'étais resté assez en retrait et en particulier je m'étais abstenu de retourner dans les territoires contaminés que j'avais visité l'été 1990 à l'occasion du projet international Tchernobyl piloté par l'AIEA. Non pas que je redoutais les radiations, mais parce que j'avais délégué la conduite du projet à une collègue afin d'échapper aux négociations plus que pénibles sur le plan financier et administratif avec les responsables biélorusses, russes et ukrainiens.
Les résultats du projet furent présentés à la Conférence Internationale organisée à Minsk en avril 1996 pour le dixième anniversaire de l'accident de Tchernobyl. C'est à cette occasion que l'un des experts français a suggéré aux responsables de la Commission européenne et de la Biélorussie présents à la conférence l'idée d'une approche novatrice visant à restaurer des conditions de vie décentes dans les territoires contaminés en s'appuyant sur l'implication active de la population et des autorités locales. L'idée a été bien accueillie et une équipe pluridisciplinaire a été constituée rapidement à laquelle nous nous sommes associées, mon collègue Thierry et moi-même, pour apporter la compétence radioprotection. Après une mission de repérage en mai pour identifier un village volontaire, le projet Ethos a démarré en juillet 1996 à Olmany dans le sud du pays proche de la frontière avec l'Ukraine. Au total il a duré 5 années et s'est achevé par la tenue d'un séminaire en novembre 2001 dans la petite ville de Stolyn capitale du district du même nom, dans lequel se trouve le village d'Olmany ainsi que 4 autres villages ayant rejoint le projet à partir de 1999.
Voilà pour la genèse du projet Ethos. J'aurai certainement l'occasion de revenir sur ses développements dans de prochaines lettres. Et aussi d'évoquer quelques unes des histoires que j'ai partagées avec les gens de Biélorussie et que tu as devinées au delà de l'exposé impersonnel de la Publication 111.
Je t'en sais gré de m'avoir contacté pour en savoir plus sur cette Publication et sur le projet Ethos mais surtout de m'avoir associé à la démarche qu'il t'a inspiré de mener avec les habitants de Suetsugi. Tu m'as mis ainsi dans la position de passeur d'une expérience humaine qui, jusqu'à l'accident de Fukushima, était restée quasi indicible. En tout cas extrêmement difficile à entendre par tous ceux qui n'ont jamais été confronté physiquement et moralement à la présence de la radioactivité dans leur intimité et leur vie quotidienne.
Au plaisir de te lire.
Bien cordialement.
Jacques
Bien cordialement.
Jacques
編集部註
〔☆〕現存被ばく状況[Existing exposure situation]──「自然バックグラウンド放射線やICRP勧告の範囲外で実施されていた過去の行為の残留物などを含む,管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する状況」
("ICRP Publ. 103, The 2007 Recommendations of the International Commission on Radiological Protection"(2007年勧告)邦訳の用語解説、G4 http://www.icrp.org/docs/P103_Japanese.pdf )
「(n)委員会〔国際放射線防護委員会=ICRP〕は今,行為と介入の従来の分類に置き換わる3つのタイプの被ばく状況を認識している。これら3つの被ばく状況は,すべての範囲の被ばく状況を網羅するよう意図されている。3つの被ばく状況は以下のとおりである:
● 計画被ばく状況。これは線源の計画的な導入と操業に伴う状況である。(このタイプの被ばく状況には,これまで行為として分類されてきた状況が含まれる。)
● 緊急時被ばく状況。これは計画的状況における操業中,又は悪意ある行動により発生するかもしれない,至急の注意を要する予期せぬ状況である。
● 現存被ばく状況。これは自然バックグラウンド放射線に起因する被ばく状況のように,管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する被ばく状況である。
(o)改訂された勧告では3つの重要な放射線防護原則が維持されている。正当化と最適化の原則は3タイプすべての被ばく状況に適用されるが,一方,線量限度の適用の原則は,計画被ばく状況の結果として,確実に受けると予想される線量に対してのみ適用される。これらの原則は以下のように定義される:
● 正当化の原則:放射線被ばくの状況を変化させるようなあらゆる決定は,害よりも便益が大となるべきである。
● 防護の最適化の原則:被ばくの生じる可能性,被ばくする人の数及び彼らの個人線量の大きさは,すべての経済的及び社会的要因を考慮に入れながら,合理的に達成できる限り低く保つべきである。
● 線量限度の適用の原則:患者の医療被ばく以外の,計画被ばく状況における規制された線源からのいかなる個人の総線量も,委員会が特定する適切な限度を超えるべきでない」(ICRP Publ. 103(2007年勧告)総括、邦訳p.xvii-xviii)
詳しくは、同文書(2007年勧告)の「6.3. 現存被ばく状況」(邦訳pp.70-72)参照。
また、『ICRP111から考えたこと──福島で「現存被曝状況」を生きる』には分かりやすい解説がある。とくに「第1回」の「「現存被曝状況」:被曝と暮らす日常」参照。http://www59.atwiki.jp/birdtaka/pages/23.html
("ICRP Publ. 103, The 2007 Recommendations of the International Commission on Radiological Protection"(2007年勧告)邦訳の用語解説、G4 http://www.icrp.org/docs/P103_Japanese.pdf )
「(n)委員会〔国際放射線防護委員会=ICRP〕は今,行為と介入の従来の分類に置き換わる3つのタイプの被ばく状況を認識している。これら3つの被ばく状況は,すべての範囲の被ばく状況を網羅するよう意図されている。3つの被ばく状況は以下のとおりである:
● 計画被ばく状況。これは線源の計画的な導入と操業に伴う状況である。(このタイプの被ばく状況には,これまで行為として分類されてきた状況が含まれる。)
● 緊急時被ばく状況。これは計画的状況における操業中,又は悪意ある行動により発生するかもしれない,至急の注意を要する予期せぬ状況である。
● 現存被ばく状況。これは自然バックグラウンド放射線に起因する被ばく状況のように,管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する被ばく状況である。
(o)改訂された勧告では3つの重要な放射線防護原則が維持されている。正当化と最適化の原則は3タイプすべての被ばく状況に適用されるが,一方,線量限度の適用の原則は,計画被ばく状況の結果として,確実に受けると予想される線量に対してのみ適用される。これらの原則は以下のように定義される:
● 正当化の原則:放射線被ばくの状況を変化させるようなあらゆる決定は,害よりも便益が大となるべきである。
● 防護の最適化の原則:被ばくの生じる可能性,被ばくする人の数及び彼らの個人線量の大きさは,すべての経済的及び社会的要因を考慮に入れながら,合理的に達成できる限り低く保つべきである。
● 線量限度の適用の原則:患者の医療被ばく以外の,計画被ばく状況における規制された線源からのいかなる個人の総線量も,委員会が特定する適切な限度を超えるべきでない」(ICRP Publ. 103(2007年勧告)総括、邦訳p.xvii-xviii)
詳しくは、同文書(2007年勧告)の「6.3. 現存被ばく状況」(邦訳pp.70-72)参照。
また、『ICRP111から考えたこと──福島で「現存被曝状況」を生きる』には分かりやすい解説がある。とくに「第1回」の「「現存被曝状況」:被曝と暮らす日常」参照。http://www59.atwiki.jp/birdtaka/pages/23.html
〔☆☆☆〕ICRP Publ. 111──正式には、ICRP Publication 111, Application of the Commission's Recommendations to the Protection of People Living in Long-term Contaminated Areas after a Nuclear Accident or a Radiation Emergency.
http://www.icrp.org/publication.asp?id=ICRP+Publication+111
http://www.icrp.org/publication.asp?id=ICRP+Publication+111
〔☆☆☆☆〕インタビュー ──「(東日本大震災3年)福島とチェルノブイリ ジャック・ロシャールさん」(「朝日新聞」2014年3月21日)http://www.asahi.com/articles/DA3S11040735.html
〔1〕国際放射線防護委員会(ICRP)──「国際放射線防護委員会(International Commission on Radiological Protection = ICRP)は、放射線防護に関連する専門家からなる民間の非営利団体です。この学術団体は、国際放射線学会、中でも国際放射線医学会議に起源を持ちます。19世紀末、1895年のX線発見とその研究・応用が進むなかで、放射線が人体にどのような影響を与えるかということが徐々に問題となりました。そうした状況を受けて、1928年に「国際X線およびラジウム防護委員会」が創設され、今日のICRPへと至ります。ICRPは民間の組織であり、創設から今日に至るまで、放射線物理学や医学、生物学、遺伝学などの専門家が、個人の資格で参加しており、各国の政府とは独立しています。委員会では、それぞれの専門家が、科学者・研究者としての立場から、放射線の防護について議論・検討を重ね、防護に関する理念をはじめ、「ICRP 2007年勧告」のような様々な勧告や提言を行ってきました。これらは、日本を含む多くの国で尊重され、放射線防護に関わる法令や実務の参考とされています。」(『専門家が答える暮らしの放射線Q&A』朝日出版社、pp.342-343)
〔2〕ICRP 第4委員会──Committee 4 Application of the Commission's Recommendations
http://www.icrp.org/icrp_group.asp?id=10
http://www.icrp.org/icrp_group.asp?id=10
〔3〕放射線防護──「放射線は、土壌や大気などに自然に存在する他、その発見以来、医療、工業、原子力など様々な用途で利用されています。メリットがある一方で、人間にとっては、放射線に被ばくすることで、発がんなど、健康に悪影響が出るリスクもあります。そこで、より安全に、よりリスクが少ない状態で放射線を扱うために、「放射線防護」という考え方が提唱されてきました。この放射線防護の考え方をテーマとする国際放射線防護委員会(ICRP)は、専門家からなる民間組織です。
ICRPは、放射線防護の目的を次のように述べています。
「本委員会勧告の主な目的は,被ばくに関連する可能性のある人の望ましい活動を過度に制限することなく,放射線被ばくの有害な影響に対する人と環境の適切なレベルでの防護に貢献することである」(ICRP 2007年勧告〔ICRP Publ. 103〕2. 勧告の目的と適用範囲/2.1. 勧告の目的の第26項、邦訳 http://www.icrp.org/publication.asp?id=ICRP+Publication+103、p.7)
ICRPでは、以上の目的を達成するために必要な知見を博捜し検討しています。その結果を勧告や提言として「ICRP2007年勧告」などの形で公開しています。また、ICRPでは、放射線防護の三つの基本原則として、「正当化」「防護の最適化」「線量限度の適用」を挙げています。」(『専門家が答える暮らしの放射線Q&A』pp.350-351、一部改変)
ICRPは、放射線防護の目的を次のように述べています。
「本委員会勧告の主な目的は,被ばくに関連する可能性のある人の望ましい活動を過度に制限することなく,放射線被ばくの有害な影響に対する人と環境の適切なレベルでの防護に貢献することである」(ICRP 2007年勧告〔ICRP Publ. 103〕2. 勧告の目的と適用範囲/2.1. 勧告の目的の第26項、邦訳 http://www.icrp.org/publication.asp?id=ICRP+Publication+103、p.7)
ICRPでは、以上の目的を達成するために必要な知見を博捜し検討しています。その結果を勧告や提言として「ICRP2007年勧告」などの形で公開しています。また、ICRPでは、放射線防護の三つの基本原則として、「正当化」「防護の最適化」「線量限度の適用」を挙げています。」(『専門家が答える暮らしの放射線Q&A』pp.350-351、一部改変)
〔4〕ICRPの2009年の出版物(ICRP Publ. 111)──ICRPの2009年の刊行物(ICRP Publ. 111)は以下、「ICRP 111」と記載します。邦題は、「原子力事故または放射線緊急事態後の長期汚染地域に居住する人々の防護に対する委員会勧告の適用」(日本アイソトープ協会刊)。
http://www.jrias.or.jp/books/cat/sub1-01/101-14.html
http://www.jrias.or.jp/books/cat/sub1-01/101-14.html
〔5〕エートス・プロジェクト〔ETHOS PROJECT〕──安東量子氏が主宰する「福島のエートス」のBlogに以下の邦訳がある。ジャック・ロシャール(Jacques Lochard)「チェルノブイリ事故によって汚染された地域における利害関係者の関与による生活環境の回復:ベラルーシのエートス計画」
https://docs.google.com/document/d/1WG3m8sMAx3b9dofexImChDdeiIlfLQwUZXlXvY54pkI/edit
同様に上記Blogには、「ICRPダイアログセミナー資料」があり、「第3回(2012年7月7日、8日/福島県伊達市)」の記録として、ETHOSとCOREの解説がある。ロシャール氏の同僚であるティエリー・シュナイダー氏によるもの(文字と映像)。
[福島のエートス]
http://ethos-fukushima.blogspot.jp/p/icrp-dialogue.html
ティエリー・シュナイダー(フランス)「学校における放射線防護の文化―ベラルーシの教訓」Lessons from the ETHOS and CORE projects in Belarus (PPT, English)
https://docs.google.com/file/d/0BxqSmDmQ78xCeVZGdmE0V2pnbU0/edit?pli=1
同発表映像 Video (YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=wS32X2nZZNY
また、ICRP Publ. 111の「付属書A. 長期汚染地域に関する歴史的経験」の「A.6 チェルノブイリ/独立国家共同体諸国」に以下の記載がある。
「(A39)この困難な状況に直面し、当局は住民を放射線状況の管理に直接関与させることを狙って、ベラルーシにおいて、1990年代後半のETHOSプロジェクトや2000年代初期のCOREプログラムのような新たなアプローチを試験的に行った。これらの新しいアプローチは、放射線状況の日々の管理に地域のステークホルダーが直接関与することが可能であることを実証し、当局によって講じられる共同の対策に加えて日々の生活における多くの防護対策を履行できる可能性を立証した。これらのアプローチはまた、持続可能であるためには、ステークホルダーによる放射線状況の管理が、国内外のさまざまな機関や組織と協力する地域関係者個人の自発性に主として依存する、経済発展の原動力を当てにしなければならないことも実証した。」(邦訳 p.40)
https://docs.google.com/document/d/1WG3m8sMAx3b9dofexImChDdeiIlfLQwUZXlXvY54pkI/edit
同様に上記Blogには、「ICRPダイアログセミナー資料」があり、「第3回(2012年7月7日、8日/福島県伊達市)」の記録として、ETHOSとCOREの解説がある。ロシャール氏の同僚であるティエリー・シュナイダー氏によるもの(文字と映像)。
[福島のエートス]
http://ethos-fukushima.blogspot.jp/p/icrp-dialogue.html
ティエリー・シュナイダー(フランス)「学校における放射線防護の文化―ベラルーシの教訓」Lessons from the ETHOS and CORE projects in Belarus (PPT, English)
https://docs.google.com/file/d/0BxqSmDmQ78xCeVZGdmE0V2pnbU0/edit?pli=1
同発表映像 Video (YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=wS32X2nZZNY
また、ICRP Publ. 111の「付属書A. 長期汚染地域に関する歴史的経験」の「A.6 チェルノブイリ/独立国家共同体諸国」に以下の記載がある。
「(A39)この困難な状況に直面し、当局は住民を放射線状況の管理に直接関与させることを狙って、ベラルーシにおいて、1990年代後半のETHOSプロジェクトや2000年代初期のCOREプログラムのような新たなアプローチを試験的に行った。これらの新しいアプローチは、放射線状況の日々の管理に地域のステークホルダーが直接関与することが可能であることを実証し、当局によって講じられる共同の対策に加えて日々の生活における多くの防護対策を履行できる可能性を立証した。これらのアプローチはまた、持続可能であるためには、ステークホルダーによる放射線状況の管理が、国内外のさまざまな機関や組織と協力する地域関係者個人の自発性に主として依存する、経済発展の原動力を当てにしなければならないことも実証した。」(邦訳 p.40)
〔6〕福島県立医大で開催されたシンポジウム──福島県立医科大学「日本財団主催の国際専門家会議「放射線と健康リスク」が本学にて開催されました」(2011.09.16)http://www.fmu.ac.jp/univ/cgi/topics_disp.php?seq=343
「国際専門家会議「放射線と健康リスク」(2011年9月11日-12日)」http://www.nippon.com/ja/features/c00705/
「国際専門家会議「放射線と健康リスク」(2011年9月11日-12日)」http://www.nippon.com/ja/features/c00705/
〔9〕国際原子力機関(IAEA)──外務省|国際原子力機関(IAEA)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/atom/iaea/
外務省|国際原子力機関(IAEA)の概要
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/atom/iaea/iaea_g.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/atom/iaea/
外務省|国際原子力機関(IAEA)の概要
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/atom/iaea/iaea_g.html
〔10〕同僚のティエリ〔・シュナイダー〕──Dr Thierry Schneider, CEPN, France
http://www.icrp.org/icrp_membership.asp
CEPNは「核の分野での防護評価研究センター」(Le Centre d'étude sur l'Evaluation de la Protection dans le domaine Nucléaire)
http://www.cepn.asso.fr
http://www.icrp.org/icrp_membership.asp
CEPNは「核の分野での防護評価研究センター」(Le Centre d'étude sur l'Evaluation de la Protection dans le domaine Nucléaire)
http://www.cepn.asso.fr
[著者紹介]
→第2回へ(※)
※本連載は、ブログ「路上の人」に移行しました。