第2回
伊勢崎賢治さんの『本当の戦争の話をしよう ――世界の「対立」を仕切る』を2015年1月15日に刊行いたします。伊勢崎さんが「気がついたときには、こちらが丸裸にされていた」と語る、2012年1、2月に福島県立福島高等学校でおこなった5日間の講義録。「講義の前に」の後編をお届けします。「紛争屋」がプレハブ校舎にて、高校生に本気で語った、日本人と戦争のこれから。(編集部)
講義の前に(その2)
「ならず者国家」は無軌道?
僕は今、学者の端くれで、通称PCS(Peace & Conflict Studies)、「平和と紛争」学と訳されるようなものを、世界の紛争地域からやってきた外国人学生たちに教え、研究しています。対象はどちらかというと、イラクやアフガニスタンで今でも続いている現代の戦争に重点を置いている(PCSは「平和構築学」と訳される場合もあります。でも、平和って紛争を克服するものだろうから、僕は「紛争」のない名称って、ちょっとどうかなと思っているんだ)。
一方、平和学というものもあります。内容は重なる部分が多いのですが、両方とも、第二次世界大戦が終わった後にアメリカを中心にできた、新しい学問領域です。やはり、死者総数5千5百万人という途方もない犠牲を出した歴史を二度と繰り返してはならないという気持ちが、このふたつの学問の誕生に作用したのでしょう。
――平和学と「平和と紛争」学って、どう違うんですか?
これも「平和」の概念と同じように、あまりはっきりしません(笑)。どちらも戦争を研究するのだけど、平和学のほうは、あきらかに戦争の予防を目指しているように思える。つまり、かなりはっきりと、戦争を悪として捉えています。政治行為としての戦争に反対するのだから、平和学自身が、すでにひとつの政治行為だともいえる。だから学問として公平・客観的ではない、平和学はひとつの政治思想であって学問ではない、という批判もできます。
「平和と紛争」学は、こういう性格の平和学と一線を画したいようです。もう少し善悪を超えて戦争を捉え、争いを生む国家間、民族間の対立とその因果関係を淡々と冷淡に読み解く。
条件Aと条件Bがそろったとき、Xの一押しがあると、人はためらいなく殺し合う……みたいな理論を見つけ出して興に入る。こんな感じかな(笑)。
そういう僕は、実務家として、戦争がもたらす被害の現実をイヤというほど見てきた人間です。気持ちは平和学にある。というより、人文系の学問すべてに対して、もし戦争という人間性に反する行為を、未来に向けて回避しようという動機がなかったら、学問に何の意味があるのか、そう考える自分が常にいます。
でも、その一方で、戦争を悪として糾弾し、真正面から対抗することが、本当に戦争の予防につながるのか。それは、もしかしたら戦争に付き物の「武勇」を反動でいきり立たせ、逆に戦争する動機を煽ってしまうかもしれない……。こんな葛藤が、僕にとっての「平和と紛争」学なのです。