8.09.2018

更新情報

★2018年8月9日 全卓樹さん「南国科学通信」を更新しました! 第10回 ペイジランク――多数決と世評
 第8回 三人よれば文殊の知恵 | 第9回 多数決の秘められた力 | 第7回 付和雷同の社会学 | 第6回 確率と自由 | 第5回 流星群の夜に | 第4回 アリと自由 | 第3回 アリたちの晴朗な世界 | 第2回 世界の中心にすまう闇 | 「南国科学通信」第1回


★2018年6月16日 人類の夜明けをめぐる本棚会議 本棚会議vol.2『先史学者プラトン』刊行記念 前編 後編 
本棚案内 山本貴光+吉川浩満 井手ゆみこ(ジュンク堂書店人文書担当)

2018年3月16日 末井昭さん「自殺会議(仮)」 
自殺した息子に対して加害者であるという意識を持ち続ける映画監督 原一男インタビュー

を更新しました!

2017年11月22日 仲谷正史+傳田光洋+阿部公彦「触感 × 皮膚 × 文学 「触れること」をめぐる冒険」を公開しました! 

-----> これまでの連載のもくじはこちらです。

南国科学通信 第10回 ペイジランク――多数決と世評

全卓樹
第10回 ペイジランク――多数決と世評

人間は社会的動物なので、生きて行く上で自分の社会の中での評判というのを絶えず気にせざるを得ない。集団の中での各人の発言の重みは、評判に従って決まってくる。「社会的地位」とまで大きな話にせずとも、小さな仲間内での評判に基づいたポジショニングが、毎日を楽しく生きるのには実は一番重要だったりする。

しかし世評というのはどのように決まっているのだろうか。有能だとか、親切だとか、人を乗せるのが上手とか、他人の評価は個々人の何かの美質に基づいているには違いないが、そればかりとも言えず、なぜ彼女はあんな有能で良い人なのに人望がいまいちなのか、あるいは特に優れたとこもない彼の意見がなぜ重きをなすのか、そのような疑問は皆が抱いているだろう。


美人投票(大統領選)
by J. Keppler. 1884.(アメリカ議会図書館蔵)

7.23.2018

南国科学通信 第9回 多数決の秘められた力

全卓樹
第9回 多数決の秘められた力

多数意見というものは、どのようにして生まれてくるのだろうか。誰にとってもこれは大きな関心事である。実際身の回りを振り返っても、われわれの仕事時間の大きな割合が、職場や家庭の各人の考えをどう集約していくか、という問題に費やされている。

社会の多数意見の形成の過程に、なにか数学的な法則のようなものはないのだろうか。人間は個々には自由意志を持ち、予測不可能な決断を行うこともあるが、多数が集まる時、ちょうど多くの原子が集まって水や塩や金属になる時と同様に、何か簡単な法則が立ち現れるのではないか。そう考えて「世論力学」というものを考案したのが、フランスはパリの理工科大学、エコール・ポリテクニークの理論物理学者、セルジュ・ガラム博士である。

世論力学の出発点は、われわれの周囲で日常的に行われる民主主義的な多数決選挙の、突き放した観察であった。


Jean-Baptiste Siméon Chardin,
Retrato de Auguste Gabriel Godefroy, 1741


多数決の通常の数学的正当化は「三人寄れば文殊の知恵」の原理に基づいている。判断の確度が5割以上ある人たちを集めて、各人独立な曇りない意見をもちよって多数決をおこなえば、人を増やすにつれ10割にいくらでも近い判断の確度が得られる、というのである。この原理を発見したのは18世紀フランスのコンドルセ侯爵であるが、事情はインターネット直接民主主義の効用が唱えられている現在でも変わっていない。

ところが往々にして、民主的選挙の実態はそんな想定とはかけ離れている。何かの議題が持ち上がったとして、おそらくは素人であるわれわれの大部分は、考えたとて何か良い判断ができるわけでもない。さらにわれわれは他人の意見に左右されやすく、たくさんの人の意見を集めても意外とどれも口真似ばかりだったりする。結果として、定見と確信をもった少数の人の判断が、またたく間に多数に広がることになる。

ガラム博士は、民主主義の古典的理念よりもむしろ、この実態を模写した数理的なモデルを組み上げることを通じて、多数決の働きを理解しようとしたのである。

ガラム理論では、賛否の意見をもった個々人がたくさん集まって多数決に参加する状況を想定し、その際すべての個人が二つのタイプのいずれかに属すると考える。定まった意見があって常に賛成または反対の意見を持ち続ける「固定票タイプ」と、他人の意見を絶えず参考勘案して賛成反対を決める「浮動票タイプ」である。

浮動票タイプの個人は、最終的な判断に至るまで自分の意見を何度か変えるが、その度に数人の意見を参考にすると想定される。われわれ自身何かの賛否を決める際、定見があったり強い利害があったりする場合は別にして、新聞やテレビやネット、友人同僚の意見をちょうするなどするものだが、通常そんなに熱心に調べて回るわけでもない。通販でものを買う際レヴューを読むにしても2−3ほど見て済ますのが常である。ガラム博士は大胆にも、この「数人の参考意見」を「ランダムに集まった自分も含めた三人による多数決」に従った意見の変更、と見做すことにした。


ガラム理論の図解:白黒で表された賛否の意見をもった個人が、ランダムに3人ずつ組み合わされ、その中で多数決をとって色を更新する。ただし星型で表された固定票タイプの個人は多数決に従わず自分の色を維持する。更新が終わるとグループはバラバラに解散する。このプロセスを白黒の比率が安定するまで繰り返す。

このような各人の意見の調整、変更が繰り返し断続的に起きて、集団全体の賛否の比率が安定になるまで続くと考えるのである。ガラム博士はこの過程を確率分布の時間発展を記述する方程式で表した。そしてそこからいくつかの興味深い結論を得た。

南国科学通信 第8回 三人よれば文殊の知恵

全卓樹
第8回 三人よれば文殊の知恵

あやまちは誰にでもある。しかし世にはあやまちが決して許されず、完璧に近い精度が要求される物事が多くある。道路の赤信号が誤作動して青になることは、たとえ100万に1でもあってはならないだろうし、銀行の出入金管理は最後の1円に至るまで、常に正しいことが期待される。われわれの業界でいえば入試成績の取り扱いなどもそうである。

そのような場合によく行われる対応が、判断者を単体ではなく複数にして事にあたるやり方である。いま探偵事務所に偽札の鑑定の依頼が来たとしてみよう。所員である探偵と秘書と探偵見習いの3人とも、偽札の扱いはお手のもので、9割の確度で正しく行えるとする。三人がそれぞれ互いに影響されずに独自に鑑定を行い、結果を付き合わせて、齟齬そごがある場合は多数決で鑑定結果を出すことにしたらどうなるであろうか。

三人ともが正しい判断をする確率は 0.9 x 0.9 x 0.9 = 0.729 である。二人が正しく一人が間違える確率を考えると、まず特定の誰かが間違えて後の二人が正しい確率が 0.1 x 0.9 x 0.9 = 0.081 なので、誰が間違えるかに探偵、秘書、見習いの3通りあることを考えれば、それは 3 x 0.081 = 0.243 である。結局三人で鑑定を行ってニ人以上が正しく判断する確率は 0.972 となる。

つまり一人で9割の正確さでできる事を3人で行って多数決をおこなうと、その確度は9割7分以上に向上する。もし各個人の確度が9割5分だったとしたら、3人による多数決の確度は、同様のやり方によって、9割9分を超えていると計算できる。

「三人よれば文殊の知恵」といった昔の人は、当然この事実に気づいていたのだろう。判断する人数を3人でなく5人、7人と増やすとさらに精度が上がってくる。

インターネット上のデータのやり取りでは、同等なデータを複数送っては所々で多数決をとる「エラー補正アルゴリズム」が必ず内臓されている。実際エラー補正なくしては、通信に混入する雑音のために、安心して通販の注文もできないことになる。

さてここで、読者諸氏にクイズをやってもらう事にしよう。まず直感的に答えてみて、それから確率計算に慣れている人は、鉛筆を動かして数字を出してみてほしい。

探偵事務所に偽札鑑定の依頼があって、所員3人での多数決で鑑定をおこなうところまでは同じだが、探偵と秘書は9割の確率で正しく偽札をみやぶれるが、探偵見習いの鑑定力が少し劣っていて、6割の確率で正しい判断ができるとしてみる。この場合、正解率9割の探偵か秘書どちらか1人に業務を全部任せるのと、3人が集まって多数決で判断するのと、どちらが上策だろうか。

7.09.2018

南国科学通信|第7回 付和雷同の社会学

全卓樹
第7回 付和雷同の社会学

フランス語に「パニュルジュの羊みたいに」という表現があって、付和雷同ふわらいどうする様をさす言葉である。智慧者のいたずら屋パニュルジュの物語に由来するのだという。彼を笑い者にした商人から、リーダーと思しき羊を一匹買い取ったパニュルジュが、すぐさま羊を海に投げ込むや、残りの羊も皆海に飛び込んで、商人は大損をしたという故事である。

人間だれしもの心には、多かれ少なかれ付和雷同の習性が根深く巣食っている。パニュルジュならぬわれわれはむしろ、付和雷同心を逆手に取った賢い商人たちの宣伝にのって、日々細々ほそぼそと損をする消費者となったりする。

『ガルガンチュワとパンタグリュエル』第四の書より
パニュルジュの羊

物事を決めるときに他人の判断に頼る傾向と、それがもたらす社会的な帰結については、数理物理学的社会学の大家、ダンカン・ワッツ博士の有名な研究を見るのが良い。「人工的文化市場における不平等と予測不能性の実験的研究」と題された2006年の論文で、アメリカの「サイエンス」誌に掲載されている。

ワッツ博士のグループは、インターネット上に音楽ダウンロード・サイトを作った。サイトの訪問者は1万5千人近くに上り、彼らが被験者となったわけである。訪問者はみな、18組の新人アーティスト・グループの手になる48曲のリストを見せられる。曲はどれも試聴可能で、訪問者は曲に1から5の評価をつけたのちに、1曲ダウンロードできるという仕組みである。

訪問者たちは、彼ら自身気づかぬ間に、9つあるグループのどれかに振り分けられる。振り分けられた各訪問者の画面には、それぞれのグループ内での曲の評価の集計が、ポイントとして表示されるようになっている。つまり各訪問者は、それまでの他の訪問者の評価の集計を見ながら、自分の評価を下すわけである。ところが第1のグループだけ特殊で、ここでは他の訪問者の評価は表示されない。つまり第1グループでは訪問者は自分の耳と感性だけで曲を評価するわけである。そして残りの8つのグループは、同じ0評価から出発して、他人の意見を見ながらの評価が積もっていく、いわば8つの並行世界となる。

実験結果を一言で言うと「付和雷同の心が超人気曲をランダムに生み出す」である。

6.25.2018

南国科学通信 第6回 確率と自由

全卓樹
第6回 確率と自由


確率の概念は人間にとって非常に基本的なものである。人は希望を胸に確率の神殿を訪れて、まれに確信を、多くは傷心を抱いてそこを去る。世の中は不確定で不測の事態でいっぱいなので、人のサバイバルには、進化の途上での確率概念の獲得が不可欠だったに違いない。

確率の中心にある概念が「出鱈目でたらめ」もしくは「ランダムさrandomness」である。明日は晴れるかもしれず、雨が降るかもしれず、確実なことは言えない。ランダムに起こる不確定な事象に対しては、人間のほうもランダムに、緻密に考えて対応するより、むしろ気まぐれに自由に対応したほうが、良い結果を招く場合も多い。

例えば「じゃんけん」を考えてみる。ゲーム理論の告げるところによれば、じゃんけんの最良の戦略は、グー、チョキ、パーを均等に混ぜて出鱈目に出すことである。いやゲーム理論など知らずとも、だれでも経験的にそれを知っている。なにかの戦略を練って出し方をきめると、そのうちパターンを読まれて負け始めるからである。

数年前に中国の王、徐、周の三人の物理学者が、多数の人間の無数のじゃんけんプレーのビッグデータを分析してみた。するとどうも人間は、じゃんけんを完全にランダムにプレーしてはおらず、最初に出す手はグーがチョキやパーよりも数%多く、また繰り返しのプレーでは前回の相手を負かす手を出す傾向があるらしい。特に負けたときにこれがいちじるしかった。これを知ってると、そのパターンの逆を行くことで、統計的に勝ちやすい出し方が見つかるだろう。つまり最初はパーを出すと勝ちやすく、次はこのパーに勝とうとチョキを出す相手にグーを出すと勝ちやすい。適度に出鱈目を混ぜながらこういう風にプレーするのである。


実は筆者はこれを実行しており、最近ではじゃんけんで勝つことのほうが負けることより多いのはここだけの秘密である。あなたも試してみられるといかがだろうか。しかし人間の癖を突いたこのような理詰めの統計的必勝法が広がって一般化したらどうだろう。今度はそれの裏を読んで勝つプレーが出てきて、今のは必勝法ではなくなるだろう。そしてそれに勝つやり方が出て、と言う具合にすすむことになる。そのうちこのような計算ずくのやり方はけっきょく損だと皆が気づいて、しまいに人は、完全に気まぐれに、本当にランダムになるようことさら意を用いながら、じゃんけんをプレーすることになるだろう。

このように考えると、人間の気まぐれは不確定な状況への最適な対応として発生してきたのではないかという、おぼろげな推測さえできる。すなわち、世のさだめなさこそが人間の勝手気ままな振る舞いを生み出した、とするのである。

気まぐれ、勝手気ままさは、人間の自由という概念の根幹の一つである。正しい理屈に従うのが真の自由というお説教はよく聞くのだが、それは詭弁だろう。理屈であれ他人の権威であれ、それに無条件に従うのは隷属である。身勝手さ気ままさは自由の一部である。福沢諭吉がLibertéにあてる日本語の「自由」を考えた時、別の有力候補は「天下御免」であった。世界の不確実性は人間の自由を生んだ一つの契機であるに違いない。

マルセイユ版タロット「愚者」

6.16.2018

本棚会議vol.2『先史学者プラトン』刊行記念|後半


人類の夜明けをめぐる本棚会議

本棚会議vol.2『先史学者プラトン』刊行記念

<後編>

本棚案内 山本貴光+吉川浩満 井手ゆみこ(ジュンク堂書店人文書担当)


←前編を読む

●UFO・宇宙人・超古代史棚


吉川:……まあ、アトランティスときたら、UFO、宇宙人、超古代文明ということで、けっこう親しみの……みなさんに親しみがあるかどうかはわかりませんが、このアトランティスには親しみのあるテーマです。

山本:ムー大陸とか、オーパーツとか。実際、プラトンの『ティマイオス』でもアトランティスの描写をするなかで、ファンタジーの世界でよく活躍する、「ミスリル」という謎の金属が出てくるんだよね。そういう話もつながる。

吉川:ミスリルなんて、こないだまで、私、別に好きでやってたわけじゃないんですが、ライトノベルの校正の仕事をしてたんですけど、めっちゃ出てくる。

山本:あはは。

吉川:魔法みたいな金属で、もうなんでもできちゃう。
あと、これね、みなさん、ご記憶にないかもしれないですけれど、『神々の沈黙』(紀伊國屋書店)って覚えてないですか。3千年前まで人間には意識がなかったっていう話ですね。じゃあどうしてたのかっていうと、神からの声を直に聞いてたんですよ。だから、いまの、現代のわれわれみたいな自己意識、俺はとか私はとか、そういうのが一切なかったっていう。……まあ、なんていったらいいですかね……トンデモ、というのかわからないけれども、でも、すごく興味深い。案外、そうかもなと思わせないこともない。
『神々の沈黙』

山本:心がなかった時代っていうのはね。

吉川:だって、われわれだって、ほとんどの時間、心なんてないわけですから。

山本:ちょっと問題発言(笑)。でも、確かにそうだ。

吉川:あと、まあ、果たしてその方向に進んでいいのかっていう問題はあるけれども、『先史学者プラトン』を読んで本当にアトランティスに興味を持った人は、どのへんを読めば……。

山本『失われた世界の超古代文明FILE』

吉川:ああ、このへんですかね。

山本:ムーだね、これはね。

吉川:そっちにいっていいのかっていう問題はありますけれども、まあ、あります。興味がある方は、あとでこっそり手にとって……。

山本:こういうのも歴史と背中合わせで必ず出てくる。証拠があるような、ないようなときに、「こういう可能性もあるじゃん」という話が出てくるわけですね。

吉川:こういう、ある種の陰謀論みたいなものは、切っても切り離せないものですね。なにか物事を探究するときには絶対に出てくる。

山本:出てくるし、いちおう、その話に対してどういう態度をとるのかは考えておきたい。常に出てくるだけに、完全にスルーってわけにもいかないから。

吉川:うん。


●魔術・錬金術・占星術棚


吉川:錬金術とか神秘思想、占星術にご興味ある人、どれくらいいるかわからないですけれど、ちょっとね、『先史学者プラトン』から離れますけど、魔術の話、ちょっとしていい?

山本:いいよいいよ(笑)。

吉川:私、魔術にまったく疎くて、なんにも知らないんですけど、でも、言いたいことがひとつあって。つまり思い入れがあって、個人的に。

山本:うかがいましょう。

吉川:私が最初に勤めた会社は国書刊行会という出版社で、この本を売ってたんですよ。『法の書』っていう、20世紀最大の魔術師といわれるアレイスター・クロウリーの本。……まあ、そもそも魔術師ってなんなんだって話ですけど。オジー・オズボーンが歌ってたりして、すごく有名な人ですよ。「ミスター・クロウリー」なんて曲もあってですね。
『法の書』

井手:あ、『法の書』は、いまでもすごくよく売れます。

山本:最近もね、『麻薬常用者の日記』が新装版で出てました。

吉川:でね、これ、袋とじになってるんですよ。本文が全部袋とじになってる。


全員:ええ…!?

吉川:本文まるごと(笑)。でね、「本書は非常に強力な魔術的パワーを秘めています」と。「開封後、9ヵ月後にいかなる災害、大戦争、天変地異が生じても、小社は一切の責を負いかねます」って書いてあるんですよ。

『法の書』を開く吉川さん

全員:ふふふ……。

吉川:でもね、これ、売り本じゃないですか。で、国書刊行会で働いていると、どんどん返ってくるわけですよ。返品で。見たら、ぜんぶ袋が破ってあるんですよ。当たり前ですけど。っていうことは、ほぼ毎日、破られてるわけじゃないですか。だからそれを見て、ああ、毎日何かが起こってもおかしくないなと思って。実際、ニュースを見ると、毎日どこかで必ず悲劇が起こっていて、クロウリーは正しかったな、と(笑)。

山本:うん(笑)。

吉川:もうひとつね。私が会社に入ったときに、この『黄金の夜明け魔法体系』っていうシリーズを会社がやってたの。黄金の夜明け団っていう有名な魔法の団体があって。ゴールデン・ドーン、略してGD。そこでね、編集部に、のちに私の妻となる、先輩の編集者がいてですね。

山本:お、なんかいい話の流れに。

吉川:なにやってるんですかって見たら、この『黄金の夜明け魔法体系6性魔術の世界』の編集を、額に汗してやっていて。性魔術って、わかります? セックスマジック。おそろしいですよね。この第6巻はいまたぶん品切れだと思うんですけど。いやぁ、とんでもない本を出してる会社に入っちゃったもんだなぁ、と。……以上です。

全員:(笑)。

本棚会議vol.2『先史学者プラトン』刊行記念|前半


人類の夜明けをめぐる本棚会議

本棚会議vol.2『先史学者プラトン』刊行記念

<前編>

本棚案内 山本貴光+吉川浩満 井手ゆみこ(ジュンク堂書店人文書担当)


5月25日にジュンク堂書店池袋本店さんで行われた「本棚会議」の様子をお届けします。本棚会議とは、ジュンク堂書店池袋本店4Fの人文書フロアで開催しているイベントで、本棚のあいだで話を聞き、時には棚をまわってたくさんの本を眺めながら、著者の方とそぞろ歩く会です。今回は第2回の本棚会議とのこと、『先史学者プラトン』を翻訳された山本貴光さん・吉川浩満さんと、ジュンク堂書店池袋本店・人文書ご担当の井手ゆみこさんが、本棚をご案内してくださいました。冒頭、井手さんが『先史学者プラトン』のことを、ちょっと謎につつまれた本だとおっしゃいますが、さて、どんな本棚めぐりになるのか。ぜひどうぞ。(編集部)

井手:「本棚会議」は、いつも、当店の喫茶でやっているトークイベントとは違って、もうちょっと先生たちと近い距離で、しかも棚を見ながら、気軽にお話を聞けるというイベントです。今回は、実際に棚をまわりながらお話いただけるということで、一般のお客様もいらっしゃるので、ゆずりあって見ていただけたらと思います。

吉川:営業時間内なので、本もご購入可能ですので。たくさん本を買いたい人はかごをお持ちになると、楽かもしれないですね。
まず、『先史学者プラトン』のことをちょっとご説明すると、プラトンという古代ギリシアの哲学者の著作を実際の考古学のいろんな案件と付き合わせていったらどんなことが見えてくるのか、っていう感じの本です。若干……なんていうか、ちょっとやばいところにも踏み込んだ、面白い本です。

『先史学者プラトン』について語る


山本:うん、ポイントとしては、プラトンの時代から見て、数千年前の歴史の話をプラトンが描いているということがある。それはアトランティスという帝国が出てくるお話なんですが、そのプラトンの対話篇自体が、与太話なのか、ほんとに歴史を書いてあるのか。そうした解釈もいろいろあるわけです。この著者のメアリー・セットガストさんは、いったん、プラトンは歴史を書いてるという立場に立って検証してみましょうと提案しているのですね。で、そのときの材料は、先史時代なので、文字資料じゃなくて、考古学による物的資料なんです。それをいっぱい付き合わせて、さあ、プラトンが書いたことは物語なのか事実なのか、それを検証しようっていう内容です。

吉川:そもそも、副題の紀元前1万年―5千年っていうのが、まず、インパクトありますよね。

山本:うん。

吉川:もちろん、紀元前1万年っていう時代があったであろうことは、われわれも薄々知ってはいるんですけれども、でも、まあ、その時代にどんな文化があったのかっていうのは、じつのところわれわれはよく知らなかったりする。なんとなくの常識だと、紀元前4千年とか、だいたい四大文明(メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明)と呼ばれるようなものが出てきたあたりから人間は人間っぽくなったみたいなイメージあると思うんですけど、じつはぜんぜん違っているという。

山本:そうね。もうひとつつけ加えるなら、先史とは歴史以前ですね。で、なにが有史で、なにが先史かという区別は、先ほども少し述べたように文字が使われていたかどうかです。これも、いろんな意見や説があるものの、一応、いまのところ、最初期の文字は、紀元前3千年ぐらいの古代メソポタミアの楔形文字ということになります。
さっき吉川くんがいった、副題の1万年から5千年とは、それより前の話です。ただし、その時代にも、なんだか文字っぽいものはあったという見解もあります。そこは今後揺れ動くかもしれません。今日のところは、とりあえず紀元前3千年ぐらいで先史と有史が区切れると仮に置いておきましょう。

吉川:あともう一個、また雑談。哲学にご興味ある方にも、プラトンっていうのはちょっと特別な哲学者です。さっき、文字以前・以降っていうのは先史時代と歴史時代を分けるメルクマールだっていう話がありましたけれど、哲学においてはプラトンが、まあ、思考における文字以前と文字以降のメルクマールといえるわけで。プラトンの師匠のソクラテスは、有名なことですけれども、文字を書き残さなかった。

山本:自分では作品を残さずに、弟子のプラトンがぜんぶ、「先生はこう言いました」というかたちで、対話篇で書き残しているんですね。といっても、その対話自体、ソクラテス先生が文字通りそう述べたのか、プラトンの創作なのかは分からないわけですけれど。

吉川:そういう意味ではけっこう、複数のレイヤーというか視点から、文字の以前と以降っていうのを、見られるかもしれない。

山本:そうだね。

井手:棚をまわるまえに、もうちょっとだけいいですか。ちょっと気になっていたんですけど、『先史学者プラトン』の原著というか、この本自体がどういう位置にあるのか、あとは、これを出すことになったきっかけなどを教えていただければ。ちょっと謎につつまれた本なので。

山本:そうですね。今回、訳者あとがきを入れてないので、けっこうお叱りをいただいていることもあるので、ここで弁明してから進みましょうか。
著者のメアリー・セットガストさんという方は、ご自身で、なんと自称してたっけ。

吉川:インディペンデント・スカラーだね。

山本:うん、独立研究者という肩書で、つまりアカデミアなどに所属しないかたちで研究をして、ものを書いて発表するっていう方です。著作としては、今回私たちが訳した『先史学者プラトン』と、それから『ザラスシュトラが語った時代』(When Zarathustra Spoke)という、続編みたいなものがもう一冊。さらに、マルセル・デュシャンがモナリザにひげを書いた、いたずらみたいな絵があるんですけど、その絵を書名に冠したモダンアートの話をした本(Mona Lisa's Moustache: Making Sense of a Dissolving World)がもう一冊あります。著作としては、その3冊です。翻訳はこれが初めてですね。

吉川:いいとこ突いてるっていうか、どれもおもしろそう。ザラスシュトラについての本は、ニーチェの有名な『ツァラトストラかく語りき』と対比させたうえで、『ザラスシュトラが語った時代』と、ちょっとずらしたタイトルにしてある。

山本:つまり、ザラスシュトラがいつごろの人かということを、同じように考古学的に追い詰める。この本の最後のほうも、実はそういう議論をしている。
で、『先史学者プラトン』については、私が調べた狭い範囲だけれど、専門家からも好意的な書評が複数出ていました。まあ、その……そんなに変な本ではない(笑)。
ただし、プラトンが書いた古代の戦争の話が、彼女が同書で仮説として言っているようなマドレーヌ文化(後期旧石器時代末、西ヨーロッパに広がった文化。ラスコーほか多くの洞窟芸術が作られた)の時代に起きた戦争のことなのか否かは確認のしようがない。今日の最後にもうひとつのテーマとしてその話になると思いますが、ある意味、知の限界を探るこころみでもある。
それについてせっかくなので一冊だけご紹介しますと、マーカス・デュ・ソートイという数学者が『知の果てへの旅』という本を書いておりまして、この翻訳が、新潮クレスト・ブックスから出たばかりです。
『知の果てへの旅』

吉川:この階にはないですかね。あとで探してみてください。文学の棚にあるので。

山本:『知の果てへの旅』は、自然科学における知の果ての話をしています。たとえば、サイコロをふったとき、これは偶然の出来事なので、人間にはどの目が出るか、完全に当てることはできない。どうしてそうなのか、なぜこんな簡単なことを人間が予測できないのか。この疑問に対して物理、量子論、確率統計、複雑系の理論など、いろんな角度から自然科学における知の限界をたどる。そういう旅に連れていってくれるのが、ソートイさんの本。
で、セットガストさんのこの本は、いうなれば人間の歴史についてやっている。過去、人間はいろんなことをやってきたけれど、どこまでその実像に迫れるか。過去の出来事という、知の果てに迫ろうという、そういう旅です。この2冊を並べると、またさらに面白いんじゃないかなと思います。

吉川:この本は翻訳が今年出たので、新しい本だとお考えの方もいらっしゃるかもしれなくて、そうだとしたら申し訳ないんですけど、原著の刊行は1987年です。底本にしたのは1990年の版ですけど。なので、まあ、けっこう古いっちゃあ、古い。だからそのあいだに、考古学上のいろんな発見もあったかもしれない。そこはまた、個別にキャッチアップする必要があるかな。

井手:じゃあ、さっそく棚をまわりましょう。

山本:今日は、ざっくばらんに行きましょう。もし、途中でなにかあったら、いつでもおっしゃってください。

吉川:もし購入をご検討されている本とかあったら、尋ねていただければ。「あり」とか「ありとは言えない」、とか「やれたかも委員会」みたいにお答えしますので(笑)。

3.16.2018

末井昭
自殺した息子に対して加害者であるという意識を持ち続ける映画監督 原一男インタビュー

『自殺』で自身の半生を丸裸でひょうひょうと綴った末井昭さんが、自殺に関係するさまざまな人と出会い、いろんな場所を訪れながら、人間と自殺についてぐるぐる考えてゆく、そんな書籍を制作中です。今回は、23年ぶりの新作ドキュメンタリー映画『ニッポン国VS泉南石綿村』を公開中の映画監督・原一男さんとのお話を公開します。息子さんが自殺された原一男さんとの自殺の話。ぜひどうぞ。(編集部)

原一男さんは元々は写真家志望でした。一九六九年に障害児をテーマにした「ばかにすンな」という写真展を銀座ニコンサロンで開催したとき、それを観に来た小林佐智子さんと出会います。その後、小林さんの提案で映画をつくり始め、原さんの彼女だった武田美由紀さんもそれに参加します。一九七二年、最初の映画『さようならCP』が完成すると同時に、小林佐智子さんと「疾走プロダクション」を設立し、小林さんは映画と私生活両方のパートナーとなります。

『さようならCP』は、重度の障害者は町に出られなかった時代に、脳性麻痺者たちが街頭で不自由な体を積極的に人目に晒していく映画です。観ている自分が障害者をどう見ているかを問われる映画であるとともに、観終わると心が解放されている不思議な映画でした。

その二年後に公開する『極私的エロス 恋歌1974』は、二人の女性の自力出産の映画です。原さんの元恋人の武田美由紀さんが、原さんのアパートで自力出産し、それに続いて、小林佐智子さんも自力出産します。前彼女と現彼女が同じ部屋で自力出産し、それを撮るという、なんとも変わったショッキングな映画です。画面いっぱいに開かれた股間から子供の頭が出てくるところは、どんな映画よりも迫力ある感動的なシーンです。

この映画が話題になって、原一男の名が世に知られるようになります。僕はこの映画をリアルタイムで観ていないのですが、公開当時はどこの会場も満員だったそうで、四谷公会堂では大島渚監督も入場者の列に並んでいたそうです。

その後、五年かけて完成した、奥崎謙三を追ったドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』(一九八七年)が大ヒットします。原一男の名前をこの映画で知った人も多いのではないでしょうか。

奥崎謙三さんという人は、神戸のバッテリー屋さんなのですが、天皇の戦争責任を追求する過激なアナーキストでもあります。僕はこの映画が公開される十五年前、奥崎謙三さんが書いた本『ヤマザキ天皇を撃て!』(三一書房)を読んでファンになりました。

1.31.2018

南国科学通信:第5回 流星群の夜に

全卓樹
第5回 流星群の夜に


流れ星はどこから来たのだろうか。

流星に願いをたくならわしは、昔から世界中に広く行き渡っている。予告なく現れて、一瞬の光芒とともに消え去る流星は、天界からつかわされた僥倖ぎょうこうの使者のように思えるからだろう。

流れ星は天の星が落ちて来たもの、という我々の素朴な推論は、古代の学術界では否定されていた。アリストテレスの著作には、流星は大気圏内の現象であって天界とは無関係、と書き残されているのである。

しかしこの場合は、学者たちの説よりも素朴な理解のほうが、真実に近かったことになる。現代の天文学によると、流星の正体は、彗星すいせいや小惑星がその軌道上に撒き散らす、直径10cmほどの岩石や氷の欠片かけらである。これが地球の重力に捕らわれて、大気中を燃えながら落ちていくのが流星なのである。地球が彗星や小惑星の軌道上にある欠片の多い場所を通過すると、一時間に何十もの流れ星が降り注ぐ流星群となる。


しし座流星群。
1868年11月13日~14日の夜12時から5時にかけて観察されたもの。
Trouvelot, E. L.
NEW YORK PUBLIC LIBRARY
しし座流星群は1833年には北米で1時間あたり5万個、
1866年には1時間あたり6千個が観察されたという。


たいていの流星は大気中で燃え尽きてしまうが、なかには大きすぎて燃え残り、地上まで落ちてくるものがある。これが隕石だ。隕石の成分は地表のほかの物質とはっきり異なっていて、元になった彗星や小惑星の構成要素を推測する手がかりとなる。

場合によっては欠片ではなく、彗星や小惑星がほぼそのまま降って来ることもある。ごく最近でも1994年7月に、シューメイカー=レヴィ第9彗星が木星軌道に捕らえられて、木星の潮汐力で20以上に分解させられた末、次々と木星表面に飲み込まれていくのが見られた。


木星に落ちた
シューメイカー=レヴィ第9彗星の衝突痕
(衝突痕は地球とほぼおなじ大きさ)
Hubble Space Telescope Jupiter Imaging Team


木星に比べて重力の弱い地球では、このような直接の衝突はずっとまれであるが、それでも何千万年に一度くらいは起きているはずである。仮に直径数10kmの彗星がそのまま降って来ると、そのエネルギーは人間が現在保有する核兵器全部の数万倍となる。複数の強い証拠から考えて、実際に今から6600万年前、巨大流星が地球に降ってきて、巨大地震と津波そして十年近く続く噴煙による「隕石衝突の冬」を引き起こしたらしい。地上の生物の95%が死に絶えた、いわゆる「中世代=新世代境界」の大絶滅である。そしてこの特大流星のおかげで、恐竜がほぼ絶滅して哺乳類が地上の主人になった。このことを考えれば、人間が流れ星を美しいと感じてそれに願いをかけるのは、とても理にかなったことにも思えて来る。

流れ星がもたらすものは、破壊と生態系の交代にとどまらない。地上にある水の少なくとも一部は、巨大な彗星または小惑星が地球と衝突したことでもたらされた、とする説が有力である。また生命の基礎となる有機物の多くが、地上でゆっくり生成されたのではなく、彗星起源の隕石に付着して地上にもたらされたとする学説もある。それどころか原始生命そのものが宇宙起源だとする説、いわゆるパンスペルミア説も、生物学界や天文学界の一部に根強く存在するのだ。

流れ星なしでは、おそらくは読者諸氏が今、この文をこうして読んでいることもなかっただろう。一瞬の光芒とともに消え去る流星は、天界から遣わされた僥倖の使者であり、人間の生存のための要件の一つだったのである。