國分功一郎
第3回
革命は一瞬の出来事(祝祭)のように語られてきた。ロマンチックである。革命の前にも、革命の渦中にも、革命の後にも、生活は続く。いまを犠牲にするものは、永遠の高みにある革命という大義(理想)の前に、常に犠牲を求められることになる。いまを捨てて、未来をとる。その転倒した発想と縁を切れるか。今回は、著者にとって格別の愛着の対象(ウイリアム・モリス)から語りおこされる。(編集部)
序章――「好きなこと」とは何か?(承前)
〈暇と退屈の倫理学〉の試みは決して孤独な試みではない。同じような問いを発した思想家はかつて存在した。時は一九世紀中頃。イギリスの社会主義者、ウイリアム・モリス[1834~1896]がその人だ。
モリスはイギリスに社会主義を導入した最初期の思想家の一人である。当時の社会主義者・共産主義者たちは、どうやって革命を起こそうかと考えていた。いまでは想像もできないかもしれないが、彼らにとって社会主義革命・共産主義革命はまったくもって現実的なことだった。そして実際に二〇世紀初頭にはロシアで革命が起こるのである。
さて、モリスが実におもしろいのは、社会主義者であるにもかかわらず、革命志向の他の社会主義者たちとはすこし考えが違うことだ。彼らはどうやって革命を起こそうかと考えている。いつ、どうやって、労働者たちと蜂起するか? それで頭の中は一杯だ。
それに対しモリスは、もしかしたら明日革命が起こってしまうかもしれないと言う。そして、革命が起こってしまったらその後どうしよう、と考えているのである。
一八七九年の講演「民衆の芸術」で、モリスはこんなことを述べている。
革命は夜の盗人のように突然やってくる。わたしたちが気づかぬうちにやってくる。では、それが実際にやってきて、更には民衆によって歓迎されたとしよう。その時にわたしたちは何をするのか? これまで人類は痛ましい労働に耐えてきた。ならばそれが変わろうとするとき、日々の労働以外の何に向かうのか?*7
*7――「あなた方(そしてわれわれ)が熱望していたものがすべて獲得されたときに、今度は何をするのか。われわれがそれぞれ分に応じて働いているあの大変革は、他の変化と同じように、夜の盗人のようにやってくる。われわれの気のつかぬうちにそれは足下にやってくる。しかし、この変革の完成が突然、劇的にやってきて、すべての心正しい民衆によって認められ、歓迎されると仮定して、その時にわれわれは何をするのか。ふたたび痛ましい労働の幾時代かのために新しい腐敗をつみかさねはじめることのないようにするには、われわれは何をすべきか。新しい旗がかかげられたばかりの旗竿から立ち去り、新秩序を宣言するラッパの音がまだ耳元に響いているとき、今度はわれわれはどこに向かっていくのか。どこに向かっていく必要があるのか。/われわれの仕事、日々の労働以外の何に向かっていくのであろうか」
William Morris, “The Art of the People (1879)”, in William Morris on Art and Socialism, edited by Norman Kelvin, Dover Publications, 1999, p.22
ウィリアム・モリス、「民衆の芸術」、『民衆の芸術』、中橋一夫訳、岩波文庫、一九五三年、一三ページ(旧字体は新字体に改めた)
そう、何に向かうのだろう?William Morris, “The Art of the People (1879)”, in William Morris on Art and Socialism, edited by Norman Kelvin, Dover Publications, 1999, p.22
ウィリアム・モリス、「民衆の芸術」、『民衆の芸術』、中橋一夫訳、岩波文庫、一九五三年、一三ページ(旧字体は新字体に改めた)
余裕を得た社会、暇を得た社会でいったいわたしたちは日々の労働以外のどこに向かっていくのだろう?
モリスは社会主義革命の到来後の社会について考えていた。確かに社会主義・共産主義体制は完全に破綻した。だが、それはモリスの問いかけをいささかもおとしめはしない。むしろいまこそ、この問いかけは心に響く。「豊かな社会」を手に入れた今、わたしたちは日々の労働以外の何に向かっているのか? 結局、文化産業が提供してくれた「楽しみ」に向かっているだけではないのか?
*
モリスはこの問いにこう答えた。
革命が到来すれば、わたしたちは自由と暇を得る。その時に大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ、と。
なんとすてきな答えだろう。モリスは暇を得た後、その暇な生活を飾ることについて考えるのである。
今でも消費社会の提供する贅沢品が生活を覆っていると考えるひともいるだろう。「豊かな社会」を生きる人間は生活を飾る贅沢品を手に入れた、と。
実はそれこそモリスがなんとかしようとしていた問題であった。モリスは経済発展を続けるイギリス社会にあって、そこに生きる人々の生活がすこしも飾られていないことに強い不満を抱いていた。当時のイギリス社会では産業革命によってもたらされた大量生産品が生活を圧倒していた。どこに行っても同じようなもの。同じようなガラクタ。モリスはそうした製品が民衆の生活を覆うことにガマンならなかった。講演のタイトルになっている「民衆の芸術」とは、芸術を特権階級から解放し、民衆の生活の中にそれを組み込まねばならないという意志を表したものだ。
つまり、モリスは消費社会が提供するような贅沢とは違う贅沢について考えていたのである。
モリスは実際にアーツ・アンド・クラフツ運動という活動を始める。彼はもともとデザイナーだった。友人たちと会社を興し、生活に根ざした芸術品を提供すること、日常的に用いる品々に芸術的な価値を担わせることを目指したのだった。人々が暇な時間の中で自分の生活を芸術的に飾ることのできる社会、それこそがモリスの考える「豊かな社会」であり、余裕を得た社会に他ならなかったのだ。*8
*8――「ゆえに芸術の目的は、人々に彼らの暇な時間をまぎらし、休息にさえあきることのないようにするために美と興味ある事件とを与えることによって、また仕事をする際には希望と肉体的な快楽とを与えることによって、人々に幸福感を味わわせることにある。要するに人々の労働を楽しく、休息を豊かにすることにある。したがって真の芸術は人類にとって純粋の祝福なのである」
William Morris,“The Aims of Art”, in Signs of change: seven Lectures, delivered on various occasions, Longmans Green and Co., 1896, p.122
モリス、「芸術の目的」、『民衆の芸術』、四四ページ
モリスが創り出した工芸品は金持ちの嗜好品になってしまい、すこしも民衆の中に芸術が入り込むための手伝いにはならなかったという批判もある。この批判は間違ってはいない。だが、モリスの考える方向はわたしたちに大きなヒントを与えてくれるだろう。William Morris,“The Aims of Art”, in Signs of change: seven Lectures, delivered on various occasions, Longmans Green and Co., 1896, p.122
モリス、「芸術の目的」、『民衆の芸術』、四四ページ
かつてイエスは「人はパンのみにて生きるにあらず」と言った。
吉本隆明はこの言葉を解釈して、人はパンだけで生きるのではないが、しかしパンがなければ生きられないことをイエスは認めたのだと言った。*9
*9――吉本隆明、「マチウ書試論」、『マチウ書試論・転向論』、講談社文芸文庫、一九九〇年
モリスの思想を発展させれば次のように言えるのではないだろうか。――人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。
*
もうひとつ、重要な論点を付け加えておこう。
文化産業はあらかじめ受け止められ方の決められた楽しみを、産業に都合のよいように人々に与え続けるのだと言った。わたしたちはそれを受け取り、「楽しむ」。
だが、人間はそれほどバカではない。何か違う、これは本当じゃない、ホンモノじゃないという気持ちをもつものだ。楽しいことはある。自分は楽しんでいるのだろう。だが何かおかしい。打ち込めない…。
アレンカ・ジュパンチッチ[1966~]というスロベニアの哲学者が、大変興味深く、そして、大変恐ろしいことを述べている。少し言葉を足しながら説明しよう。
近代はさまざまな価値観を相対化してきた。これまで信じられてきたこの価値もあの価値も、どれも実は根拠薄弱であっていくらでも疑い得る。そうしてあらゆる価値が信用を失ってきた。
だが、その果てにどうなったか? 近代はこれまで信じられてきた価値に代わって、「生命ほど尊いものはない」という貧弱な原理しか提出できなかった。この原理には概念としての力も、人を突き動かす力もない。それ故に、むしろ伝統的な価値への回帰が魅力を持つようになってしまった。
それだけではない。人々は、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たちを、恐ろしくもうらやましいと思うようになっている。*10
*10――Alenka Zupančič, Ethics of The Real: Kant, Lacan, Verso, 2000, p.5
アレンカ・ジュパンチッチ、『リアルの倫理――カントとラカン』、冨樫剛訳、河出書房新社、二〇〇三年、二〇ページ
自分はいてもいなくてもどちらでもいいのではないだろうか。何かに打ち込みたい。自分の命を賭けてまでも達成したいと思える重大な使命に身を投じたい。だがそんな使命はどこにも見あたらない。だから、大義のためなら、命をささげることすら惜しまない者たちがうらやましい。アレンカ・ジュパンチッチ、『リアルの倫理――カントとラカン』、冨樫剛訳、河出書房新社、二〇〇三年、二〇ページ
誰もそのことを認めはしない。しかし心の底でそのような気持ちに気づいている。
筆者の知る限りでは、この衝撃的な指摘をまともにうけとめた論者はいない。ジュパンチッチの本は二〇〇〇年に出ている。もしかして出版が一年遅れたら、このままの記述では出版が許されなかったかもしれない。そう、二〇〇一年には例の「テロ事件」があったからだ。*11
*11――あの「テロ事件」が、わたしたちの中にあったこのやましい気持ちに目を向けるのを妨げていることに注意しなければならない。飽きるほど報道された衝突時の映像と非人道的な殺戮の残虐さは、死をも顧みぬほどに何かを信じている人間に対する憧れからわたしたちの目をそらせてしまった。それは事件の犯人たちを特別視し、「対テロ戦争」へと世界を巻き込んでいった北米の一国家の策略に乗ることに他ならない。あの事件の犯人たちは特別ではない。そしてあの犯罪も特別ではない。あれは殺人事件、大量殺人事件である。殺人事件は殺人事件として捜査され、その犯人は殺人犯として裁かれねばならない。
ジュパンチッチは鋭い。だが、わたしたちは〈暇と退屈の倫理学〉の観点から、もうひとつの要素をここに付け加えることができるだろう。大義のために死ぬのをうらやましいと思えるのは、暇と退屈に悩まされている人間だということである。食べることに必死の人間は、大義に身をささげる人間に憧れたりしない。生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうした中に生きている時、人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する。大義のために死ぬとは、この羨望の先にある極限の形態である。〈暇と退屈の倫理学〉は、この羨望にも答えなければならない。
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