7.02.2011

國分功一郎
第5回

第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)

もっともおろかな者
さて、いまわたしたちはパスカルの手を借りながら、人間のおろかさのようなものを取り上げて論じている。まるでそれが人ごとであるかのように。

先に〈欲望の対象〉と〈欲望の原因〉とを区別したけれども、これは実に便利な区別であるから、日常生活で応用したいと思う人もいるかもしれない。たぶん、「君は自分の〈欲望の原因〉と〈欲望の対象〉とを取り違えているな」と指摘できる場面は日常生活の中に数多く存在しているだろう。

だが、もしあなたが、ウサギ狩りや賭け事のたぐいの気晴らしに熱中している人に向かってそのようなことを述べ立てて、いい気になっていたとしたら、あなたはパスカルから次のように言われてしまうに違いない。

―そんな風にして〈欲望の原因〉と〈欲望の対象〉の取り違えを指摘しているだけの君のような人こそ、もっともおろかな者だ。

パスカルはこう言っているのだ。

人間はつまらない存在であるから、たとえば台の上で玉突きするだけで(ビリヤードのこと)十分に気を紛らわせることができる。なんの目的でそんなことをするのかと言えば、翌日、友人たちにうまくプレーできたことを自慢したいからだ。

同じように学者どもは、いままで誰も解けなかった代数の問題を解いたと他の学者たちに示したいがために書斎に閉じ籠もる。

そして最後に―ここ!―こうしたことを指摘することに身を粉にしている人たちがいる。それも「そうすることによってもっと賢くなるためではなく、ただ単にこれらのことを知っているぞと示すためである。この人たちこそ、この連中の中でもっともおろかな者である」*8
*8―「このように、人間というものは、倦怠の理由が何もない時でさえ、自分の気質の本来の状態によって倦怠に陥ってしまうほど、不幸な者である。しかも、倦怠に陥るべき無数の本質的原因に満ちているのに、ビリヤードとか彼の打つ球とかいったつまらないものでも、十分に気を紛らすことのできるほどむなしいものである。
 だが、いったい何が目的でこんなことをするのだと、君は言うだろう。それは、翌日友人たちの間で、自分はだれそれよりも上手にプレーしたと自慢したいためなのだ。同じように、他の人たちは、それまで誰も解けなかった代数の問題を解いたということを学者たちに示したいために書斎の中で汗を流す。そしてまた、あんなにたくさんの他の人たちが、後で彼らが占領した要塞について自慢したいために極度の危険に身をさらす。それも私に言わせれば同じように愚かなことである。そして最後に、他の人たちは、これらのこと全部を指摘するために身を粉にするのである。これも、そうすることによってもっと賢くなるためではなく、ただ単にこれらのことを知っているぞと示すためである。この人たちこそ、この連中の中で最も愚かな者である。なぜなら、彼らは愚かであることを知りながらそうなっているからだ。前の人たちについては、もしもそのことを知っていたなら、もはや愚か者とはなっていないだろうということが考えられる」Pensées, §139, p.89
『パンセ』、断章番号一三九、九七ページ ※強調は引用者
狩りや賭け事は気晴らしである。そして、「君は、自分が求めているものを手に入れたとしても幸福にはならないよ」などと物知り顔で人に指摘して回るのも同じく気晴らしなのだ

しかもその人は、先にみた取り違えのことを知ったうえで、自分はそこには陥っていないと思い込んでいるのだから、こういう人はもっともおろかだとパスカルは言うのである。

パスカルは気晴らしについて書いた紙の欄外に、「むなしさ。こういうことを他人に示す喜び」という文句を書き記している*9。ここに言う「おろかな人」は、まさしくこの「喜び」を生きる糧にしているわけだ。
*9―« La vanité, le plaisir de le montrer aux autres » Pensées, §139, p.88
『パンセ』、九四ページ
さて、こうやってパスカルが気晴らしについて述べていることを見てくると、この思想家は本当にすべてを先回りして書き留めている気がしてくる。〈欲望の対象〉と〈欲望の原因〉を取り違えている者はおろかである。そして、知ったような顔をして、そうしたことを指摘して回っている連中はもっともおろかな者である…。

どうだろう、パスカルの言っていることはあまりにもあたっていて、あまりにもあたっているから少し腹が立つと言ったことの意味がおわかりいただけただろうか。

パスカルの解決策
パスカルには、自らの陥っている事態に意識的であることは利口であり、意識的でないことはおろかだという考えがあるように思われる。たとえば彼はこんなことを言っている。気晴らしをする人たちのあやまちは、彼らが騒ぎ(たとえば狩りや賭け)を求めることにあるのではない。彼らのあやまちは、自分たちが求めているもの(たとえばウサギやもうけ)を手に入れられたなら真に幸福になるはずだと思っているところにある…。

だから、こんな場面を想定できる。気晴らしのむなしさを指摘する者が、「分かってやっている」と切りかえされてしまう場面だ。
―「君はなんか熱中しているみたいだけど、いま探し求めているものを手に入れたとしても、満足するわけではないよ。」

―「そんなことはもちろん分かっているさ。僕はただ自分のことについて考えるのがいやだから、そこから僕を遠ざけてくれる目標をわざと立ててそれに熱中しているのさ。」*10
*10―「だから、彼らを責めるにもその責め方がまちがっているのである。彼らのあやまちは、彼らが激動を求めるということにあるのではない。〔…〕ところが問題なのは、探し求めているものを手に入れたならば自分たちは本当に幸福になるはずであるかのように、彼らがそれを求めていることである。〔…〕彼らがこんなに熱心に探し求めているものも、彼らを満足させることはできないだろうと言って彼らを非難した場合に、もしも彼らが、(よく考えればそう答えるべきなのだが)自分たちがここで探し求めているのは、自分自身について考えることから自分たちを遠ざけてくれるような強烈で激しい仕事なのであって、それだからこそ、自分たちを魅了し、熱烈に引き寄せるような魅惑的な対象を目標として立てているのだと答えたならば、彼らの敵方は返す言葉に窮したであろう。ところが、彼らはそうは答えないのである。なぜなら、彼らは自分自身を知っていないからである。彼らは自分たちが探し求めているのは狩りだけであって、獲物を捕らえることではないということをわきまえていないのである」
Pensées, §139, p.88
『パンセ』、九五ページ
おそらく後者は利口な人間だ。利口な人間を前にして、「これらのことを知っているぞ」と示すだけのおろかな者はくちごもってしまうにちがいない。

とはいえ、だからといってパスカルは、利口なやり方で気晴らしに興じることを勧めるわけではない。気晴らしというものは人間にそれなりの喜びを与えてはくれるけれども、結局は何かに依存している状態である。そして、その依存関係を支えている気晴らしは偶然に強く左右されるものだ(狩りで一匹もとれない、あるいは賭けで大損する)*11
*11―「気を紛らすこと。
もし人間が幸福であったら、聖者や神のように、気を紛らすことが少なければ少ないほど、それだけ幸福であろう。――そうだ。だが気晴らしで喜ばしてもらえることは、幸福ではないのか?――いや、ちがうのだ。なぜなら、気を紛らすことは、ほかから、外部からくる。したがってそれは、従属しているものであって、その結果として、無数の事故によって乱されがちであり、それが苦しみを避けがたいものにするからである」
Pensées, §170, p.96
『パンセ』、一一四ページ
そもそも部屋にじっとしていられずに気晴らしに興じてしまうことこそが人間の不幸の源泉なのだった。気晴らしのむなしさをわかっていながら気晴らしに興じる利口さも、また決してほめられたものではない。

するとパスカルはいったいどうしろと言うのだろうか? 拍子抜けするかも知れないが、人間のみじめな運命に対するパスカルの解決策とは、神への信仰である。

パスカルは、「神なき人間のみじめ」「神とともにある人間の至福」と言う。これは決して、「神への信仰が大切である」とか「人間は神への信仰によってこそ幸せになれる」などと抽象的に述べられているのではない。

パスカルは人間のみじめさを実に具体的に考えている。人間が退屈という病に陥ることは避けがたい。にも関わらず人間は、つまらぬ気晴らしによってそれを避けることができる。そしてその結果、不幸を招き寄せる。

この構造から脱却するための策が神への信仰なのである。


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つづく

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