11.08.2017

南国科学通信 第1回

全卓樹
第1回

高知工科大学で理論物理学の研究をしている全卓樹さんに、自然界の様々な階層を旅する科学エッセイを連載していただきます。月に二度、十五分だけ日常を離れ、自然の世界をのぞいてみませんか?

★本連載は終了しました。改題・加筆のうえ、2020年1月に小社より本として刊行する予定です。どうぞよろしくお願いいたします。――編集部
 

海辺にたたずんで、寄せては返す波の響きをきいていると、「永遠」という言葉が心に浮かぶ。


"Cabin of the Customs Watch" by Claude Monet, 1882. (Metropolitan Museum of Art)


死と静止はおそらくは永遠の安らぎではない。死してのちも万物が色せ崩れゆき、世界が無慈悲に年老いていくことを、熱力学の第二法則は命ずるのだ。永遠の喩えとされるダイヤモンドの輝きも、決して永遠ではない。ダイヤモンドは、30億年前に高温高圧のマグマの中で作られて以来、再び作り出されることはなく、何十億年ののちすべて灰として散っていくことだろう。

むしろ絶えず巡りきて繰り返すもの、周回し回帰するものの中にこそ、永遠はあるのではないか。満ち潮引き潮の繰り返し、太古から変わることなく同じリズムを刻む昼と夜の交代や月の満ち欠け、そのような永劫えいごうに回帰する運動の中にこそ、永遠が見出されるはずである。


Partial eclipse of the moon.
Observed October 24, 1874.
by Trouvelot, E. (The New York Public Library)


しかし実は、日々の太陽の巡りや月の満ち欠け、満ち潮と引き潮のリズムも、決して不変ではない。何億年という時間のスケールで見ると、一日の長ささえ変わっていくのである。

一日の長さは一年に0.000 017秒ずつ伸びている。これは月が毎日満ち潮引き潮を引き起こすとき、海水と海底とのあいだの摩擦まさつが、地球の回転をごく微弱に減速させるからである。その反作用で月は角運動量を得て、一年に3.8cmずつ地球から遠ざかることになる。それにともなって一月ひとつきの長さも少しずつ伸びていく。

珊瑚さんごの表面には日々の潮の満ち引きが文様となって刻まれている。季節ごとに刻まれる文様の濃淡と合わせてみることで、一年に日の数だけ、365の筋がみられるのである。ところが考古学者のスクラットンが、3億5千万年前のオーストラリアの珊瑚をしらべて、そこには一年に385ほどの筋が刻まれていることを発見した。つまりその時代の地球では、一年は385日であり、それから勘定すると当時の一日が、23時間弱の長さしかなかったとわかるのである。同様なデータの蓄積から、6億年前の一日は22時間ほど、9億年前だと20時間ほどだったと推定されている。


MURCHISON, Roderick Impey, "Siluria. The history of the oldest known
rocks containing organic remains, with a brief sketch of the distribution of
Gold over the Earth.", 1859, p.276.(The British Library)


天文学者の計算では、500億年ののち、一日の長さは今の45日ほどになり、それはそのときの一月の長さとそろってしまうという。月がすでにそうであるように、地球もいつも同じ面を月に向けるようになり、地上には常に月が見える国、決して見えない国ができるであろう。地球からずっと遠ざかった月は太陽よりずっと小さく見え、もはや地上では皆既日食を見ることもない。どの海辺にいこうとも、決して潮の満ち引きは見られないだろう。

しかしながら恐らくは、そのさびしい光景を、我々の子孫が目にすることはないだろう。その遠い将来の来るはるか以前に、赤色巨星となった太陽が、月も地球も飲み込んで焼き尽くしてしまっているだろうから。

我々の世界には永劫えいごうの回帰は存在せず、それゆえ永遠も存在しないかのようである。

「永劫回帰」を唱えたのは、よく知られるように、19世紀末を生きたドイツの哲学者ニーチェであった。彼の著書を紐解ひもとき、文学的修辞に満ちた難解な教説を読み解くと、そこには大略たいりゃく次のようなことが書かれている。

世は変転の末巡り巡って、かつての光景がほぼ繰り返されるが、回帰をすか為さぬかを決めるのは、我々の意志である。超人とは前世のすべてを肯定し、意志によって世界に永劫回帰をもたらすものである。精神の韻律いんりつと肉体の脈動、生命の死と再生の律動りつどうとは、決して現実には存在しえない永劫回帰の理念を、この世界に招来しょうらいしようとする意志の作用にほかならない。

ニーチェの見た「永遠」が、病魔におかされた幻影なのか、それとも世界の実相なのか、それは不明である。しかしながら我々の意志に基づく日々の繰り返し、日の出前の漁港のにぎわい、大都市の朝ごとの満員の通勤電車、刻々と変わる信号機の色に応じて四辻にあふれ出す人と車の波、夕餉ゆうげ時のテレビニュースの開始を告げる変わらないキャスターの声音、そういった人の世の止むことのない律動こそが、我々の世界に意味を与え、その存続を支えているのはまぎれもない事実であろう。

Fifth Avenue Hotel; Madison Square Bank Building, 1885.
(The New York Public Library)

Park Row and Nassau Street, N.Y., 1900.(The New York Public Library)

No departure of the miniature ship I.T. Ford for England from Baltimore,1865.
(The New York Public Library)


永劫回帰、そして永遠を予感させる何かが、もしこの世にあるならば、それはニーチェの語った通り、滅びをのがれ再生を欲する生命の意志に違いない。

世の律動を支えている大都市から離れて、南海の潮騒しおさいの律動の下にある、のどかな学園の田園キャンパスにて、理論物理学の探求に従事するのがこのコラムの筆者である。達意の文の大家たちに混じって、まずい雑文をここで読者諸氏の目にさらすのは、よく考えてみれば恐ろしいことである。唯一の救いはどうやら、科学研究を生業とするのが筆者のみだという点にある。ここでは辺境に暮らす一科学者の見た世界を、星辰せいしん界について、地上界について、そして数学的抽象界について、数式もなく予備知識もいらないように語っていこうと思う。

文を読むことは、往々にして人を疲弊させ憂鬱ゆううつにする。科学の精妙な鏡面に映った神秘的で晴朗な世界空間の姿は、そのような憂愁ゆうしゅうからあるいは読者諸氏を解放するかもしれない。

毎月2回ずつの締め切りの律動を、意志の力をもって守りつづけ、世界の安泰あんたいな進行に、筆者なりのささやかな寄与をしたいと考えている。


"Newport Rocks" by John Frederick Kensett, 1872. (Metropolitan Museum of Art)

★著者紹介