加藤陽子
絵・題字 牧野伊三夫
絵・題字 牧野伊三夫
母校・桜蔭学園での講演記録 後編2
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』著者・加藤陽子さんが母校で話したこと、最終回。
総力戦となったときに動員される論理、「最悪の予想」の立てられ方。なぜ、人々が合理的な行動をとれなかったのか、なぜ、合理的な結末に至らないのか。紀元前のギリシアで初めて「戦史」が書かれた背景から、太平洋戦争まで。「歴史はすべて近代史だ」。(編集部)
総力戦となったときに動員される論理、「最悪の予想」の立てられ方。なぜ、人々が合理的な行動をとれなかったのか、なぜ、合理的な結末に至らないのか。紀元前のギリシアで初めて「戦史」が書かれた背景から、太平洋戦争まで。「歴史はすべて近代史だ」。(編集部)
歴史の「問い」の始まり
ヘロドトスは「歴史学の父」ですが、古代ギリシアにはもうひとり、歴史学にとって重要な人物がいます。トゥーキュディデース(紀元前460年頃~400年頃)で、ヘロドトスより20歳くらい若い。トゥーキュディデースという名前は、実に発音しにくい。ただ、岩波文庫などでは、この名前を採用しています。トゥーキュディデースは、まさに、今回のお話のテーマとしてドンピシャの題名、『戦史』という本を書きました。こちらは岩波文庫で、500ページ位もある厚さで上・中・下の三巻本の分量があります。やはり読み通すのは大変だと思いますが、こういう本を読んでいる女子高生には誰も話しかけてこないと思いますので、ひとりになりたいときなどにお薦めです(笑)
トゥーキュディデースが誰と同じ世代かといえば、哲学者のソクラテスです。紀元前5~4世紀にかけてのギリシアは文化の隆盛期で、とくに都市国家のアテナイでは数々の演劇がうまれ、パルテノン神殿など、現代にも残る文化や芸術作品、建築物が生み出された時期でした。
トゥーキュディデースが『戦史』で扱ったのは、紀元前431年に起こったペロポネソス戦争です。先ほどお話ししたペルシア戦争は「東西文明の戦い」でしたが、ペロポネソス戦争は同じ文明圏の人たち同士による、血で血を洗うような戦いでした。
今回の戦争について、どことどこの都市国家間の戦いかといえば、前回の戦争、ペルシア戦争の段階では、同盟を組んで戦った、都市国家であるスパルタとアテナイなのですね。ペルシア戦争を通じて急速に勢力をつけたアテナイを、ペロポネソス同盟諸国軍が警戒し、戦争によってその勢いを殺ごうとしたことが、戦争の遠因でした。ギリシア全体の覇権を握るのはどちらの都市国家となるのか、それをめぐり、27年にわたって戦われ、紀元前404年、アテナイの敗北で戦争が終わります。
このトゥーキュディデースの『戦史』には、ヘロドトスの『歴史』にはなかったものがあります。これは歴史学の発達のうえで、実はとても大きなことです。
ヘロドトスは単純に、「自分の子孫たちは戦争の原因を忘れてしまうだろうから、両方の国の言い分を丁寧に拾って、記録を残すことにしました」といって、たくさんの演説の記録や碑文を収集して記録を書き残しました。
それに対して、20年後に生まれたトゥーキュディデースは、少し進化していると言えるでしょうか。同じ文化圏内の戦いであったために、我が身にとっても、戦いがより深刻な影響を及ぼしたためでしょうか。トゥーキュディデースには「問い」があるのです。
彼は、戦争に負けた側のアテナイの出身でした。アテナイは海を制し、高い文化を生み出した中心地で、当時にあっては、もっとも優れた民主政を行っていた都市国家でした。一方、スパルタはどちらかといえば、王様や貴族など身分的な階級が力をもっている、貴族制をとる国家でした。スパルタの名前を伝える言葉としては、スパルタ式教育などがあります。いずれにせよ、権威的な支配をしている国家というイメージであり、アテナイとくらべれば、スパルタは文化的に劣る国であったと、哲学者たちはいっています。
トゥーキュディデースにとっては、母国のアテナイが、なぜ、劣った文化の、劣った政治政度の段階にあったスパルタに負けてしまったのか。海を制し、民主政を発達させたアテナイがギリシアを制しえなかったのはなぜか。
彼はアテナイ人として、切実に答えを知りたかったのだと思います。
「歴史は5W1Hからなる」、とはどこかで聞いたことがあるでしょう。いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように、が最低限描かれていなければ、歴史とは言えない、ということですが、5W1Hさえ書かれていれば歴史となるか、というと、ちょっと違う。
歴史は、書いている当人が、生身の怒りや生身の疑問を持ったうえで書かれたとき、ある種の異様な緊張感と異様な迫力を持つことがあります。なぜ自分の愛する祖国が敗北したのか、トゥーキュディデースは深く悩み、そこから生まれた歴史的な問いと格闘していくのです。
戦争に負けたら奴隷になる
トゥーキュディデースは、ヘロドトスと同じように演説を拾っていくのですが、どのような場面を引用するか、そこに彼の力量が出ますね。戦争が始まる前年、紀元前432年、スパルタで開かれたペロポネソス同盟側の会議でなされた演説をトゥーキュディデースは拾います。
この演説には、スパルタ側のアテナイへの嫉視、疑惑、恐怖がじつによく表現されています。スパルタ側の人間が、アテナイを攻撃しなければならない理由を次のように説明しているのです。
この戦に敗れるという、耳にするさえ忌まわしい仮定が実現すれば、われらは容赦なく奴隷に落されることを覚悟せねばならぬ。(中略)怯懦〔きょうだ〕のために父祖に劣るの汚名に甘んじたとも思われよう。わが父たちはギリシアに自由を与えたが、われらは己が自由さえ守り抜くことができず、(中略)一つのポリスが独裁者として列国に君臨するのを座視することになる。事ここに及んでは、われらは不明、軟弱、無責任という三つの最大の責めをふせぐ手だてさえ失うことになる。
「怯懦」というのは、恐れおののくということです。「一つのポリス」とはアテナイのことで、スパルタは自分たちの国の方が独裁に近いにもかかわらず、アテナイのことを独裁者と名指しして戦意発揚していました。
ヘロドトスが書いたペルシア戦争においては、ギリシア側が結束するための理念は、「自由を守るため」という正攻法でした。
ぺロポネソス戦争は、ギリシア内の同じ都市国家であり、力が拮抗している国同士の争いです。そのような、ある種の決戦、総力戦となった場合、どのような論理が動員されるかといえば、「この戦いに負ければ、奴隷になる」と最悪のことを想像させているのです。自由を守るために戦え、と鼓舞されるのと、戦わなければ奴隷となる、と脅されるのと、どちらが、人々に訴えるかという問題は、なかなか答えを出しにくい問題です。
アテナイを独裁者として君臨するのを阻止するためには戦わなければならない、あるいは、アテナイが勝利すれば自らは奴隷とされてしまうので、戦わなければならない、と国民を叱咤する論法は、第二次世界大戦のとき、日本やドイツなど枢軸国側はもとより、イギリスやアメリカなどの連合国側も、さかんに用いたものです。今から考えれば、奴隷にされるとの脅しが、脅しとして機能していたこと自体、信じられない思いがします。
私は母親の話を想い出します。私の母親は1931年7月7日生まれ、満州事変の起こった年の1931年、また日中戦争の始まった日と同じ日の7月7日ということで、ぶっそうな日の生まれです(笑)。いま81歳になりまして、みなさんのおばあちゃんの年齢にあたりますか。彼女が10歳のときに太平洋戦争が始まったことになります。いまでも当時の話をよく聞かされますが、アメリカとの戦争に負けたら、男はみんな奴隷にされ、女の人は売られてしまうと、ずっとそう思わされていたというのですね。今は栃木県佐野市になっている田沼町という、典型的な関東の農村部の話です。
たしかに彼女が物心ついたときには、中国との関係が悪化し、事変という名の戦争が始まっていたでしょう。けれども、昭和戦前期に先立つ大正時代には、アメリカ文化は、アメリカ映画というかたちで、相当に日本の地方へも入っていたはずなのですね。また、日本の成人男子が2千万人いたとして、その人たち全員を奴隷にして強制労働させるコストなどを考えてみれば、奴隷にされる、売られるなどといったデマは正気の沙汰とは、普通は思えませんね。
最悪の予想はどのように立てられていたのか
ただ、ここで、少し考えなければならせないのは、彼女の戦争の記憶が、太平洋戦争の最終盤の記憶で上書きされているということだろうということです。今の時点で判明していることは、1944(昭和19)年6月のマリアナ沖海戦での敗退、7月の東条英機内閣倒壊の時期で、制海権・制空権を失った日本は、本来、戦争を止めなければならないレベルまで戦力が落ちていました。
そのようなときに、日本側がどのような敗戦予測を立てていたのかということについて、ちょっとご紹介しておきましょう。これは、陸軍省の軍事課という部署が作成した「最悪事態に処する国防一般の研究」という史料で、1944年9月25日に作成されました。もし、レイテ島などフィリピン決戦に敗北すれば、どうなるか。その最悪予想は、次のようなものでした。すなわち、米軍が日本に進駐してくる、陸海軍は武装解除される、天皇制は廃止される、民主政体へ移行させられる、大和民族は奴隷的移住をさせられる、だから、フィリピン決戦で敗退しても、講和を乞うてはならず、絶望的でも本土決戦を挑む、という結論が導かれています。
このような史料を読んでいきますと、奇妙な思いに囚われますね。米軍進駐、武装解除、民主政体への移行、これはだいたい正確な予想ですね。ただ、天皇制の廃止と大和民族の奴隷的移住、という二項目については、全く予測がはずれています。おそらく、この二項目については、予測をしようとして書いたのではなかったのでしょう。絶対国防圏から本土決戦へと、当時の日本は、地理的にも空間的にも、後退に後退を余儀なくされていたわけです。軍部としては、その後退を国民に説明する際、恐怖を直ちに喚起する言葉で説明するしかない、と考えたのでしょう。天皇制が廃止されますよ、大和民族が奴隷とされますよ、という脅しの言葉が用いられていきます。
少女であった私の母に、負け戦の段階に入った軍部の言い訳を見抜けというのは酷かも知れません。ただ、そもそも、日本とアメリカが戦争を始めた理由と背景は何であったのだろうか、という根本のところを考えてもよかったかも知れません。あるいは、大人であれば、考えてしかるべきであったと思います。
アメリカは日本の男子と女子を奴隷として、どのような利益があるのか。そのような行為を敗戦国に対しておこなうアメリカの徳義は、国際社会で問題にされることはないのか、という理屈がどうして浮かばなかったのでしょうか。アメリカが日本と戦争をした理由として、日本人であれば、太平洋戦争に先立つ数年間、中国と日本の関係について、また、東南アジアと日本の関係について、アメリカが、ことごとく、文句を言っていたなぁという記憶があったのではないでしょうか。日本が中国や東南アジア地域を独占的閉鎖的に支配することをアメリカは嫌がっていたはずだ、と。戦争にいたる過程について、戦争の当事者であれば、振り返ることも可能だったのではないでしょうか。
私がやってきた学問は、このような、ある意味、意気地のない学問でありまして、なぜ、人々が合理的な行動をとれなかったのか、なぜ、合理的な結末に至らないのか、その解きがたいジレンマに悩んだ末に、「問い」を発することです。紀元前5世紀の人が歴史を書こうとしたときのキモも、同じであります。紀元前のギリシアで、「なぜ海を制したアテナイが敗れたのか」という問いを抱いたトゥーキュディデースは、母国アテナイに攻めかかってきたスパルタで、どのような教育がなされ、どのような演説がなされていたのか、調べました。双方の国家と国民は、いかなる背景から敵対していったのか、その敵対が武力で解決されると考えられたのはなぜなのか。
そのような「問い」を抱えつつ、相手の考え、相手の頭の中をのぞき込んで、答えに至ろうとする努力、それが歴史なのだと思います。相手側は、なぜ自分の国を攻めようと思ったのか、対立点は何なのか、これを知りたいのです。
「相手国の憲法に手を突っ込んで、それを書き換えるのが戦争だ」
ちょっと宣伝になりますが、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、みなさんと同じ中高生への連続講義をまとめた本ですので、よろしかったら読んでみてください。
それでは最後に、この本でも紹介していることですが、戦争はなぜ起こるのか、その根本についてお話ししましょう。
なぜ戦争が起こるかというと、理由はいろいろあります。外交交渉では遂げられなかった問題を武力で解決するため起こす戦争もありますが、それだけが理由ではない。植民地を増やしたいからということもありますが、それだけでもない。
戦争の大本とは何か。戦争で勝利した国は、敗北した国にどのような要求を出すのか。相手国をどうしたいとき、相手国の何を変えたいときに戦争は起こるのか――これを考えたのが18世紀の思想家・ルソーです。
ルソーは私が少女時代に読んだ漫画、『ベルサイユのばら』が描く18世紀のフランスに生まれた人です。『人間平等起源論』『社会契約論』を書き、王様ではなく人民にこそ主権があるという人民主権とう概念を初めて打ち立てた人ですが、ルソーは、戦争がなぜ起こるのかついて、一言で述べています。
私はこれを、東京大学法学部の長谷部恭男先生の『憲法とは何か』(岩波新書)という本で知ったのですが、目からウロコが落ちるような思いを味わいました。
戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の憲法に対する攻撃というかたちをとる
ルソーが述べていたのは、いかなる意味でしょうか。ぺロポネソス戦争のときのアテナイとスパルタの関係を考えてみますと、アテナイは民主政で、スパルタは貴族の身分的支配による専制国家でした。アテナイとスパルタは、社会を成り立たせている根本のルールが違う国だった。そして、エーゲ海のいちばん豊かな貿易を誰が独占できるかというとき、民主政のアテナイか、貴族制のスパルタかという、原則の対立に帰着する。
日本とアメリカの戦争も、中国や東南アジアという、それぞれにとって非常に大事な貿易圏をどちらが獲るかというところで戦いが起こります。日本は天皇制国家の立憲君主制で、閉鎖的な貿易制度をとろうとしていた。遅れた資本主義国家として成長を遂げつつあった日本が、英米などと対抗するには、その方法しかないと、日本人は考えたわけでしょう。一方アメリカは民主主義国であり、また強力な資本主義国家でありましたから、自由貿易を標榜することが自らの利益を最大にしえた。
つまり、憲法というのは括弧つきの大日本帝国憲法ということではなく、「社会を成り立たせている基本的なルール」のことをいいます。
ルソーがいっているのは、相手国の社会の基本を成り立たせている基本的秩序=憲法にまで手を突っ込んで、それを書き換えるのが戦争だ、ということです。倒すべき相手が最も大切だと思っているものに対して根本的な打撃を与えられれば、相手に与えるダメージは最も大きなものとなりますね。
それにしても、ルソーは、素晴らしい予言者ですね。思想家というのは、時代を超えて真理を語りうるものなのだと、つくづく思います。ルソーが死ぬのは1778年、18世紀後半のことです。むろん、第一次世界大戦や第二次世界大戦を知るはずがないのですが、ルソーが述べていることは、これらの総力戦時代の戦争にさえ当てはまるのです。
第二次世界大戦に敗れた日本はアメリカによって憲法を書き換えられました。ナチスドイツも、アメリカ・ソ連・イギリス・フランスの4カ国の政府のもとで憲法を書き換えられました。文字通り、憲法を書き換えられるのです。
そして日本とドイツが囲っていた世界が、アメリカ、イギリス、ソ連という大国のもとで貿易圏として解放され、その後の戦いがアメリカとソ連の間で起こっていく。
すべての歴史は、近代史
ところで、ルソーがこのようなことを考えたのは、逆にいえば、理論上では、人を一人も殺すことなく戦争を終らせること、あるいは避けることができると考えたからだと思います。つまり、それまでの社会契約を解消して違う国家となる方法を、人民が事前に選択すれば、戦争をする必要はないのではないか、ルソーはそう思い描いていたのではないでしょうか。
つまり、ある国家の人民が、戦争の危機、自らの民族が根絶されるかも知れないほどの危機に直面したとき(これは1944年7月以降の日本にあてはまると思います)、異なる社会契約を結ぶ、別の国家となってしまいます、ということを、その国を構成する国民が選択する権利がある、そのような考え方です。
本日は、古代ギリシア世界で、初めて戦史というべきものが書かれた背景から、日本の近代が直面した太平洋戦争まで、幅広くお話をしてきました。また、戦争の本質というものが、その国民の憲法=社会を成立させている基本的な秩序を変えることにあるのであれば、国民が戦争を究極的に避けるための方策もあるのだ、とルソーが教えてくれていたこともお話いたしました。
いまの時代は、一歳、二歳の年齢差が非常に大きな意味をもって語られるのかもしれません。若さというものへ、異様なまでに高い価値を与える現代の文化的風潮は、そのような予想を裏書きしているように思います。
ただ、今回のお話で見てきた、紀元前5世紀のトゥーキュディデースが苦しみつつ発した「問い」の中味、また、人類が繰り替えしてきた戦争の特徴を析出することで、戦争の悲惨さを絶対的に回避するため18世紀のルソーが出した「回答」の中味を知れば、この地球上に生まれた人間の考えることの近さ、同質性の方に、むしろ、衝撃を受けるのではないでしょうか。究極的に、歴史はすべて近代史だというのは、そのような意味です。
了
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著者による朝日出版社の本
それでも、日本人は「戦争」を選んだ