山本貴光
第3回 読書について(2)
四ヶ月ぶりの更新、連載第三回です。電車の中では本が読めるけど、家に帰るとまるで本を開く気にならない、という人。机に向かうとなかなかページを繰る手が遅くていらいらするけど、愛用のソファに寝転がるとぐんぐん読める、という人。他人の本の読み方など考えたこともなかった。自分の癖も意識してこなかった。今回は、「本を読むということの広がり」を実感していただきます。
愛読、一読、閲読、音読、回読、会読、解読、看読、玩読、句読、訓読、講読、購読、誤読、再読、雑読、査読、色読、失読、試読、侍読、熟読、誦読、触読、真読、斉読、精読、速読、卒読、素読、体読、代読、多読、耽読、直読、通読、積読、摘読、点読、転読、顛読、難読、拝読、白読、判読、範読、繙読、必読、披読、複読、併読、奉読、捧読、味読、未読、黙読、訳読、濫読、略読、流読、輪読、朗読、和読
いきなりお経のような書き出しになりました。ここに並べてみたのは、すべて読むことにまつわる言葉です。名前を与えられている読書の仕方だけでも、これだけの種類があることに驚きますし、これらを、十把一絡げにして「読書」と言ってしまうのは、なんだか雑駁過ぎて申し訳ないような気さえしてきます。
とはいえ、私たちはそうと自覚しないまでも、日々の暮らしのなかで、そのつど自分の必要や状況に合わせて、さまざまなスタイルで読書をしています。ものを読むということは、生活のなかのさまざまな営みと同じように、人それぞれで、そこにはその人の生き方が現れます。
ただ、多くの場合、読書は一人ですることが多いため、他人と自分の読書のスタイルがどのように違っているのか、どのように似ているのかということは、日ごろなかなか実感しづらいところでもあります。そこで、いくつかの読書を論じた書物を並べてみることで、本を読むということの広がりを眺めてみようとしているところでした。
前回に引き続き、読書についての書物をご紹介してみましょう。
山村修『増補 遅読のすすめ』
読むということは、移動することにも似ています。同じ道であっても、車で通りすぎるのと、自転車を転がしてゆくのと、歩いてみるのとでは、見えてくる光景がまったく違います。猛スピードは猛スピードなりのものが、ゆっくり行けばゆっくり行ったなりのものが見えてきます。
その喩えでいけば、「狐」の筆名で知られた書評家の山村修さんは、歩きの達人です。遅読といえば、前回ご紹介したエミール・ファゲもおおいにゆっくり読めと勧めていました。ファゲの議論はもっぱら学術や研究という関心からなされていたのに対して、山村さんの話はもう少し広く、生きることのなかに読書を位置づけています。仕事や日常のことをこなす中で本を読む、生活人の読書論なのです。
たとえば本書の冒頭で、山村さんは『吾輩は猫である』を三度目に読んではじめて目に止まった一文の味わいを述べています。どうして以前読んだ折にも目に入っていたはずなのに、印象に残っていなかったのか。「答えはきまっている。速く読んだからだ」というわけです。言えば当たり前のことのようですが、書物のページに目を落とし、文字の上を目で辿ることと、それを読み取り、玩味することとはまるで別のことだからです。
それにしても、速読といい遅読といい、速度とは相対的なもの。山村さんが「遅読」というとき、どんなペースを念頭に置いているのでしょうか。本書全体を通じて、たくさんの実例が示されていますが、次の一節にその本質が凝縮されています。
「目が文字を追っていくと、それにともないながら、その情景があらわれてくる。目のはたらき、理解のはたらきがそろっている。そのときはおそらく、呼吸も、心拍も、うまくはたらき合っている。それが読むということだ。読むリズムが快くきざまれているとき、それは読み手の心身のリズムと幸福に呼応しあっている。読書とは、本と心身とのアンサンブルなのだ。」(37ページ)
ときには急に迫られたり、必要があって、必ずしも自分の心身のリズムと合わない速さで読むこともあるでしょう。しかし、生活のなかで読書を楽しむという場合、自分の心身が持っているリズムに合わせて進んでゆけばよいというわけです。至言でありましょう。
なお、本書では、速読術を含む何冊かの読書論も取り上げられており、多様な読書のスタイルを知りたい向きにも参考になります。
松岡正剛『多読術』
書名だけ見ると、「なんだ、たくさん読めばいいという話か」と早合点してしまいそう。
そう思ったとしても無理はありません。なにしろ「編集工学」をキーワードに編集はもちろんのこと、著述活動や教育活動まで幅広い活躍をしている松岡さんは、インターネット上のブックガイド・サイト「千夜千冊」でもよく知られている「大」のつく読書人です。松岡さんの名前に『多読術』とくれば、つい量をこなせという話を連想してしまうというもの。
しかし、この書名は「多く読め」というよりは、むしろ「多様に読め」を略したものだと思ったほうがよいでしょう。開口一番、松岡さん自身が「ぼくにとっては『多読』と『少読』はつながっています。本質は同じです。少読がしだいに多読になるわけではなく、多読によって少読が深まるということもありうるわけで、そこが読書のおもしろいところ」だと述べて、ありうる誤解を退けています。
本書はインタヴュアーを前に松岡さんがご自身の本とのつきあいを語ったもので、さながら読書という営みのパノラマのような書物です。具体的な本との出会いを例に取りながら、「精読」「粗読」「乱読」といった読み方に加えて、「系読」「守読」「攻読」など、豊富な読書経験を通じて見出した読書のあり方がつぎつぎと論じられています。
どんな読み方をしてもいいから、服を着るように本と接し続けてはどうか。これが松岡さんの薦める読書の基本です。言ってしまえば、書物とは多くの場合見知らぬ誰かが書いたもの。そして読み手である私たちは、自分が見知らぬことに出会うため、書物を手にとります。それはなにも書かれていることだけではありません。他ならぬ読者自身、書物との接触を通じて、自分の知らない自分を発見することもあるのです。
だから松岡さんは読書の醍醐味を「無知から未知へ」だと言います。「無知から既知へ」ではないところがさすがです。なぜなら、自分を含め、世界はそんなに簡単に分かってしまうものではありません。知らないから知りたいと思って書物の森に足を踏み入れると、そこにはさらなる未知が森羅万象と同じように互いにつながりあって待っているからです。だからこそ多様な読書の仕方が必要になるわけです。読書の多様なひみつを知りたくなったら、手に取りたい一冊です。
ピエール・バイヤール
『読んでいない本について堂々と語る方法』
Pierre Bayard, Comment parler des livres que l'on n'a pas lus? (Les Editions de Minuit, 2007)書名を見て、「そんな方法があるのか!」と色めき立つ人もあれば、「そんなバカな。読んでない本について語れるはずがないだろう」と阿呆らしくなる人もあるでしょう。
どうお伝えしたらよいか迷うところですが、本書の看板に偽りはありません。ただし、そこはそれ、クリスティやドイルのミステリを精妙に読み解く批評家バイヤール氏のことです。思わせぶりな書名で読者を釣らんとするハウトゥ本とはひと味もふた味も違う議論を展開しています。
本書は、普通とは異なる方向から本を読むということを考えさせてくれます。例えば、自分にとっては読むのが「難しい」本に取り組んでいるとしましょう(例えばヘーゲルの『精神現象学』など)。なかなかはかどらないものの、粘りに粘ってページを繰り続け、行を追い追いとうとう最後まで目を通したとします。一仕事を成し遂げて、坂道を上り続けて山頂に辿り着いたすがすがしさのようなものを感じるところです。それもまた読書の楽しみの一つです。
後日、友だちとのおしゃべりでその本が話題に出ます。「あ、それならこないだ読んだよ」「ほんと? どんな本なの、ちょっと教えてよ」「ええとね……」と言ってはみたものの、二の句を継げない。自分はいったいぜんたいなにを読んだのだろうかと愕然とします。つまり、形のうえではその本を「読んだ」ことになるけれど、それを読んだと称してよいものだろうか、というわけです(前回ご紹介したアドラーとドーレンの『本を読む本』でも、このことが問題となっていました)。
バイヤール氏は言います。読んだのになにも語れないのと、読んではいないけれどその本について語ることができるのとでは、果たしてどちらが創造的な書物とのつきあい方だろうかと。
「読んでいない本について語ることが正真正銘の創造活動であり、そこでは他の諸芸術の場合と同じレベルの対応が要求されるということは明らかである。そのことを納得するためには、そこで動員されるさまざまな能力、つまり作品に潜在する諸々の可能性に耳を傾けたり、作品が置かれる新たなコンテクストを分析したり、他人とその反応に注意を払ったり、さらには人の心をとらえる物語を語ったりする能力のすべてに思いを馳せれば十分だろう。」(同書、218ページ)
書名が言っているのはまさにこのことです。つまり、読んでいない本について語るといっても、そのためにはその本や著者、あるいはその本や著者が属する文化や社会、その条件となる歴史といった背景についての見識が必要となります。というよりも、そうした知識や経験が脳裏に蓄積されている範囲でだけ、読んでいない本についても人は語ることができるというわけです。
例えば、『精神現象学』そのものは読んでいなくても、西洋哲学史におけるヘーゲルの位置づけ、書店や図書館の棚での扱いや類書の並び具合、「精神」「現象学」といった言葉についての理解、コジェーヴによる読解に触れたことがあれば、そうしたことから『精神現象学』について語ることもできるわけです。書物はただ一冊でぽつんとあるものではなく、書物や出来事の網目のなかにあるものだと言い換えてもよいでしょう。
こう考えてくると、もうお分かりかもしれません。そうです、そんなふうに語れるようになるためには、いったいどれほど本を読むことになるのか。いえ、言うだけ野暮だったかもしれません……
管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』
書物とのつきあいも、ここまで来ると一種悟りの境地のようです。しかしそれは悟りのようでありながら、実のところ、なおも本とのつきあいのなかで揉まれ、ときに思い悩むからからこそ、自らを励ます声として必要となる言葉でもあるのです。「大丈夫だ、心配するな」と。そもそも本を読んだり、読み終えたりできるということが一つの大いなる謎なのです。
もちろん人はそうしようと思えば本を読み終えることができるでしょう。しかし、先ほどバイヤール氏とともに考えさせられたように、それは本を読んだこと、読めたことになるのか。これは読書について考えるうえで、極めて重要な問題です。人が本を手に取り読む限り、いつでも必ずついてくる疑問なのです。
管さんは、読書というものが、ちょうど旅人が土地から土地へ流れてゆくように、常に流れのなかにある営みであることを教えてくれます。旅の空の下では、見知らぬ人びとのあいだを行き、道に迷ったりしながら、たまさか知り合った異国の人と慣れない言葉で語り合い、束の間の意思疎通を楽しみ、また別れてゆきます。そうするなかで、この世界のなかのさまざまな他人や事物の存在に気づき、そうしたものとの関係を結び、また、ほぐしながら、同時に自分も変化してゆきます。
「自分は、いつまでもおなじところにはいない。いて、たまるもんか! 動いては関係を踏みはずし、はずしては関係を組み換え、自分を作り替えてゆく。新しい風景との出合いが、新しい自分という面を削る。昨日の私は今日の私にとって他人、そして明日の私にとってのなつかしい道連れだ。」(同書、25ページ)
この本には、まるで(過去を含めて)世界中を旅して還ってきたおじさんから、その見聞を語り聴かせてもらうような、そんな楽しみが満ちています。そして実を言えば、そんなふうに楽しんでいるおじさんの姿こそが、聞き手を他のなによりも強く旅へと誘うのです。「本を読んで忘れるのはあたりまえなのだ」「本は読めないものだから心配するな」とは、安易な慰めの言葉などではなく、しぶとく世界を歩きわたってゆくための、実践的な智恵なのでした。
なお、本書には、書棚の見えるところに置いておくだけで、ときどき涼風がそよぎわたるという効能もあることを付け加えておきたいと思います。
*
次回は、また別の角度から読書という営みに迫ってみましょう。
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(続く)
[著者紹介]今回紹介された本
■山村修『増補 遅読のすすめ』
山村修『増補 遅読のすすめ』
(ちくま文庫、2011)
■松岡正剛『多読術』
松岡正剛『多読術』
(ちくまプリマー新書、2009)
■ピエール・バイヤール
『読んでいない本について堂々と語る方法』
Pierre Bayard, Comment parler des livres que l'on n'a pas lus? (Les Editions de Minuit, 2007)
ピエール・バイヤール
『読んでいない本について堂々と語る方法』
(大浦康介訳、筑摩書房、2008)
■管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』
管啓次郎
『本は読めないものだから心配するな〈新装版〉』
(左右社、2011)
小社刊行の著者の本
コンピュータのひみつ
心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く
MiND マインド (ジョン・R・サール著)