5.31.2011

山本貴光

第2回 読書について(1)

連載第二回。テーマやジャンルの良書をどんどん紹介する、という展開と思いきや、筆者は、そうしたブックガイドの通例に反して、読書が(そもそも)良きものと推奨された時代の最良の証言を召喚することにしたようです。読書に就く前に知っておいていいかもしれない「読書術」のガイド。

コンピュータやネットワーク、ケータイやiPad、Kindleといった各種ディジタル機器の普及によって、書物や文章を読む環境が、かつてなく広がり、多様になっています。そうした状況のなか、従来使われてきた紙の書物の位置もまた、かつてなく揺らいでいるようです。電子書籍が何度目かの登場を果たし、「電子か紙か」といった議論を目にする機会も増えています。

ところでこの連載は、ブックガイド、つまり書物の案内を目的とするものです。ですから周囲の変化に惑わず、従来の紙の書物の話を淡々と進めるのも悪くないと思いました。しかし、せっかくの機会でもあります。この際、「読書」とはどういう営みなのか、「書物」とはなんなのか、ということについて、いま一度、とっくり考えてみることから出発してもよいのではないかと思い直した次第です。いわば足下から見直してみようというわけです。

ありうる誤解を避けるためにあらかじめ申せば、私自身は紙の書物も、電子テキストも、共に活用すればよいと考えています。ただし、両者は異なる特徴を備えているので、読者の用途によって使い分ける必要があります。紙と電子の書物を、「同じ」だと見なして差し支えない場合と、そうではない場合があるだろうと思うのです。このことについては、連載が進むにつれて、詳しく述べてゆくことにしましょう。

では、具体的にいくつかの書物に沿って、読書について考えてみたいと思います。

ショーペンハウエル「読書について」
Arthur Schopenhauer, Über Lesen und Bücher



「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである」

ドイツの哲学者、ショーペンハウエル先生(1788-1860)の読書指南は、読むものを精選せよということに尽きます。「選択と集中」とでも言いましょうか。人生は短いのだから、しょうもない本を読んでいる暇などないだろうというわけです。どこまでも正しく、そして身も蓋もありません。

だから先生は、多読は退け、できるだけ読まずに済ませる技術がなによりも大切だとも言います。なぜなら、書物とは他人が考えておいてくれたことの痕跡に過ぎず、読書とはその思考の轍を辿ることに過ぎないからです。したがって、絶えず本ばかり読んでいると、やがて自分の頭で考えられなくなるだろう、というのです。もう耳が痛すぎて、この先(連載)を続ける気力をくじかれそうです。

先生の追求の手は緩みません。日々刊行されて、程なく忘れ去られてゆくはずの新しい「駄書」など放っておけ。あらゆる時代の、あらゆる国々で書かれた天才の作品だけを熟読せよ――どこか求道的で、マジメ一辺倒の学級委員長のようでもあるショーペンハウエル先生の読書指南には、少したじろがされます。

しかし、おそらくこの忠告は、人生の残り時間を想像してみるとき、考えてみざるをえないとき、切実なものとして迫ってくるに違いありません。言ってみれば、この読書術は「死を思え(メメント・モリ)」という哲学的格言と一体のものなのです。なるほど、生きている間しか活動の時間がないのだとしたら、その貴重な一部を費やして何を読むのかということは、もっと真剣に考えてよいのかもしれません。

そんなショーペンハウエル先生の言葉に全面的に同意しつつ、一つだけ尋ねてみたいことがあります。先生は、誰もが読書経験のまだ浅い若き日に、いったいどうやって読むべき書物とそうでないものとを見分けるに至ったのですか、と。

エミール・ファゲ『読書術』
Émile Faguet, L’Art de lire (1912)

読書術 (中公文庫)
石川湧訳、松柏館書店、1934;春秋社、1940;
中条省平校注、中公文庫、2004

フランスの批評家、エミール・ファゲ(1847-1916)の指南は、一言でいえば「先ず極めてゆっくりと読まねばならぬ。そして次には極めてゆっくりと読まねばならぬ」です。当然のことながら、これとは裏腹に「性急であっても」いけません。読書における性急さは怠惰でさえあります。ファゲは、あくまでもゆっくり読むことこそが、あらゆる読書に適用される技術だといって譲りません。

しかし、なぜゆっくり読まねばならないのでしょうか。それは、読書が、他の人と共に考えることだからです。単に、書かれている言葉に自分の思考を委ねきってしまうのではなく、著者の考えていることを深く分析し尽くすほどに、さまざまな問いを立てながら対話せよ、というのがファゲの勧めです。それは当然、カラスの行水のようにさっと目を通して終わる読書に比べたら、時間がかかろうというものです。

ファゲの指南がとても好ましく思えるのは、そのフェアな精神です。読者たるもの、或る書物の著者の考えに異論を懐く場合であっても、性急に否定してはいけない。まずは著者に対して一時的でよいから信頼を与えよ。そして、著者の言わんとすることを十分に理解したと思えるほど読み込んだとき、心に浮かんださまざまな疑問に対して、著者がどう答えたか、答えなかったかということをしっかり確認したうえで、はじめて反論を試みよというわけです。

疑い深い人であれば、「そりゃ、書き手としての立場から都合のいいことを言ってるだけじじゃないか」と思うかもしれません。しかし、もちろんそんなケチな了見ではありません。むしろこれこそは、読者が一冊の書物から、最大限の利益を得るための極意なのです。遠回りに見えて、最短の近道と言っても過言ではありません。

すでにご推察の通り、この、ゆっくり読むことは、ショーペンハウエル先生が言う、「読む本を絞れ!」という勧めと言葉は違えど同じことを指しています。

アドラー+ドーレン『本を読む本』
Mortimer J. Adler and Charles Van Doren, How to Read a Book (1940; 1972)
本を読む本 (講談社学術文庫)
外山滋比古+槇未知子訳、日本ブリタニカ、1978;
講談社学術文庫、1997

では、読むべき書物を選び、ゆっくり読むとして、具体的にはどうすればいいのでしょうか。

もし読書の仕方について、一冊だけお勧めを教えてくれと言われたら、この本に止めを刺します。原題は、How to read、ずばり「本の読み方」。

この本は、きわめて丁寧かつ実践的に本の読み方を教えてくれます。楽しみのための読書は、めいめいが好きなようにすればよいとして、それ以外の読書において、どうすればよりよく読書できるようになるか、これが同書の課題です。

鍵を握るのは、「積極的な読者になる」ことです。言い換えれば、どうしたら書物を使い倒せる読者になれるか、これこそが問題なのです。

皆さんもこんな経験をしたことはないでしょうか。或る本を手にとって、最初から最後まで目を通したはずなのに、さてその本を閉じて、「結局のところ、この本には何が書いてあったか」と自問してみても、まるで分からない……。しかし、本を読み終えて、その本に何が書いてあったかということを、自分の言葉で述べることができないとしたら、果たして読書したことになるだろうか。いやいやそうではあるまい、それでは読書の甲斐がないではないか。著者たちはそう言います。至極もっともです。

ではどうすればよいか。同書はこの問題に応えるものです。そのためには、漫然と読むのではなく、読書の技術を修得し、磨く必要があります。例えば、本を分類することから始まって、目次をよく読むこと、著者が立てている問題を理解すること、通読して全体と部分の関係を知ること、書き込みをすること、複数の本を活用すること、などなど、著者たちは、本当に具体的な読書の技術を順序よく、そして根気よく教えてくれるのです。こうしたことを、当然のことと言って済ませずに、とことんきちんと言葉にして述べているところに、同書の値打ちがあります。

ただし、ここに書かれていることを身につけるためには、それなりの根気と読書の実践が必要です。とはいえ、例えば、自転車に乗れるようになることや、キーボードを見ずに文字を打てるようになることなどと同じように、一度ここに説かれた読書の技術を身につけたら、それはまさに一生の宝となるはずです。よりよい読書生活を送りたいと願うほどの人であればなおのこと。

カルヴィーノ「なぜ古典を読むのか」
Italo Caovino, Perché leggere i classici(1990)


さて、ショーペンハウエル先生にしろ、ファゲ先生にしろ、繰り返し読むに値する書物を読んだほうがよいと勧めてくれていました。それは、言うなれば「古典」と呼ばれる書物を読もうということでもあります。そして、これはいろいろな先達が口を揃えて言ってきたことでもあります。しかし、「古典」とは一体なんでしょうか。

この点については、イタリアの作家イタロ・カルヴィーノの言葉が考えさせてくれます。彼は、その小説同様、愉しみと企みに満ちた「なぜ古典を読むのか」というエッセイのなかで、14もの「古典」の定義を提示しながら、この問題を吟味しています。その最初の定義はこんな具合。

「1. 古典とは、ふつう、人がそれについて、『いま、読み返しているのですが』とはいっても、『いま、読んでいるところです』とはあまりいわない本である。」

なんとも人を食ったというか、逆説的というか、痛いところを突いたというか、「ほんと、そうだよな」と思わず得心してしまう力が、この定義にはあると思います。しかも、カルヴィーノは、この定義が「よく本を読んでいる」と言われる人たちに当てはまるものだと付け加えるのを忘れません。読書人としての自尊心がそう言わせるのだというのです。

そんな調子で、カルヴィーノは次々と「古典」の定義を展開しながら議論を進めてゆきます。いまそれを乱暴にまとめてしまえば、古典とは読み尽くすことのできない書物だと言えそうです。読み尽くせないものであるからこそ、時代の風雪に耐えて伝存し、繰り返し読み返すたびに新たな発見と驚きをもたらす、そんな書物なのです。

だからこそ、彼は、古典を読むなら解説書や注釈ではなく、「原典だけを直接読むべき」だとも言います。旅行ガイドを読んで未知の土地を知ったつもりになるのではなく、何度でも足を運んでそのつど自分の目で新たな発見を愉しもうではないか、というわけです。それに、見知らぬ土地へ行けば、すっかり馴染んでしまった環境にいるのとは違って、自分のこともまたいろいろと自覚される機会が増えたりもします。海外を訪れると、かえって日本のことがよく分かるように。

ところで、「なぜ古典を読むのか」。カルヴィーノは、いろいろ言っておきながら、最後にちゃぶ台をひっくり返します。古典を読むのは、何かの役に立つからではない。読まないより読んだようがいいからだ、と。なんだか強引な決めつけのようでもあります。しかし、私の見るところ、カルヴィーノのこの結論は、もう少し別のことを示しているようです。事は「潜在性」という問題に関わります。やがてそのテーマについて述べるときに、続きをお話ししましょう。


というわけで、今回は読書にまつわる四冊の書物をご紹介してみました。このテーマをもう少し続けてみます。

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(続く)
[著者紹介]

今回紹介された本
■ショーペンハウエル「読書について」
Arthur Schopenhauer, Über Lesen und Bücher
読書について 他二篇 (岩波文庫)
ショーペンハウエル『読書について 他二篇』
(斎藤忍随訳、岩波文庫青、1960)
所収
Arthur Schopenhauer, Parerga und Paralipomena (1851)


■エミール・ファゲ『読書術』
Émile Faguet, L’Art de lire (1912)
読書術 (中公文庫)
石川湧訳、松柏館書店、1934;春秋社、1940;
中条省平校注、中公文庫、2004

■アドラー+ドーレン『本を読む本』
Mortimer J. Adler and Charles Van Doren, How to Read a Book (1940; 1972)
本を読む本 (講談社学術文庫)
外山滋比古+槇未知子訳、日本ブリタニカ、1978;
講談社学術文庫、1997

■カルヴィーノ「なぜ古典を読むのか」
Italo Caovino, Perché leggere i classici(1990)
なぜ古典を読むのか
イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』
(須賀敦子訳、みすず書房、1997)
所収

小社刊行の著者の本
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