時評 第3回
想定外のリスクをいかにして想定するか
──原発の安全ための最小限の提案
大澤真幸
連載時評第三回。原発推進派と脱原発論者の対話が成り立たない、としばしば言われる。では、こんな提案はどうだろうか。「もし安全な原発がありうるとすれば、今までとは圧倒的に異なった意味で安全だと見なしうる原発があるとすれば、それは、脱原発派が挑戦的に提起してくるようなリスクにも耐えられるような原発を建設できた場合のみであろう」。
将来の原発の安全性に関して、具体的な提案をさせてもらいたい。
私は、中長期的な視野にたったとき、原発を全廃するしかないと思っている。東電の福島第一原発の事故の現状を知ったとき、またこうした事故にいたるまでの歴史を前提にしたとき、原発をすべて廃炉にするという結論以外に、将来の安全性を保障する責任ある判断はありえない。これが私の考えである。
とはいえ、仮にそうだとしても、すべての原子力発電所を即座に停止することは、いろいろな意味で不可能だ。当分の間は、多くの原子炉は稼働し続ける。また、停止したからといって、原発はその瞬間に安全になるわけではない。停止してから廃炉になるまでには、つまり完全に安全になるまでには、何年もの時間が必要である。さらに、原子力発電所の維持や増設を望む者もそうとうな数に上るので、実際には、すべての原発の廃止の政治的な決定が、簡単にもたらされるとは思えない。
だが、原発推進派であろうが、脱原発派であろうが、共通に望んでいることがある。全員一致の願いがある。原発の安全性がそれである。可能な限りの原発の安全性だ。
ここでは、原発がすぐにはすべて廃止にならないという条件のもとで、それならばどのようにしたら原発の安全性を極限にまで高めることができるか、という問題について、一つだけ現実的な提案をしておきたい。なお、今回の提案は、金井利之氏の論考(『世界』6月号)から示唆を受けているということをあらかじめお断りしておく。
この度の福島第一原発の事故に関しては、想定外の大規模な津波や地震によって引き起こされた、と言われる。そうすると、われわれは国や事業者に対して要求する。「もっと安全な原発を」と。当然、国や事業者は答えるだろう。「想定を厳しくした」「今回並の津波が来ることも計算に入れて防波堤を建て直した」「基準を見直して、それもクリアできるものにした」「現場の職員の訓練をやりなおした」「マニュアルを書き直した」「この原子炉は事故が起きたものとはタイプが違うから大丈夫だ」……
これで、われわれとしては安心なのか? これでよかった、ということになるのか? 絶対にそんなことはない。問題は、「想定外」のことが起きた、ということにあるのだ。「想定外」のことが起きうるということが、安全性に対する最大の脅威なのである。基準や想定を変更して対応したところで、さらに想定外のことが起きれば、たちまち事故が起きるだろう。
たとえば、これからの原発は、東日本大震災並みの津波にも耐えられるような防波堤を設置するかもしれない。しかし、それだからと言って安全になるわけではない。たとえば、マグニチュード9.0の地震が直下で起きたらどうだろうか。そのときにはきっと、これほどの地震が直下で起きることは想定していなかった、と言われるだろう。津波には備えていたが、直下の地震への対策は足りなかった等と言われるだろう。
今までも、少なくとも国や事業者としては、想定している範囲では、できる限りでの安全のための措置を取ってきたつもりであろう。無論、よく調べてみると、今回の事故については、想定の範囲の対応すらも十分ではなかったようにも思えるが、とりあえず、国や東電に対して最大限の善意を働かせて、彼らが、想定の範囲ではぎりぎりの努力をしていたと仮定しよう。いずれにせよ、少なくとも、今までも、国や事業者は、「想定できるあらゆるリスクに対して対応できるような安全措置を取っている」と言ってきたのである。とするならば、「もっと安全にしてほしい」という要請に対して、彼らが、「万全の対策をとりました」と約束し、多少の対策をうったからといって、それを鵜呑みにできるはずがない。それだけなら、今までとやっていることは同じではないか。
ここで、後論のために、一つのことを確認しておく。原発で事故が起きたときに、誰が最も困るのか? その最大の被害者は誰なのか? 原発の特徴は、そこで事故が起きたとき、すべての人に被害が及ぶ、誰もが困る、というところにある。だから、大規模な原発事故の被害者は、極論すれば、人類全体である。現在の福島第一原発の事故でも、日本全体が被害者だと言ってもよい状況である。だから、被害者は、特定の誰彼ではなく、普遍的な人類そのものなのだが、それでも、あえて問おう。誰が最大の被害者なのか?
この問いへの答えは自明である。原発の近くにいる者ほど被害が大きいのだ。原発を立地させている自治体、原発がそこにある共同体こそが、最大の被害者である。実際、われわれは、今、その惨状を目の当たりにしている。福島第一原発の事故によって、原発周辺の市町村はほとんど根こそぎにされているではないか。そこに住むこと自体が困難だ、という状況に追い込まれているではないか。個人の生命ではなく、共同体そのものの生命が絶たれようとしているではないか。
したがって、当然、原発の立地自治体の政治家、首長を含む政治家は、原発の安全性に対して、最大の配慮をする義務がある。福島第一原発の事故を経験した後は、少なくとも次のことは確実である。もはや、自治体の政治家は、「事業者や国が安全だと言ったからそれを信じていた」とは言えない、ということである。これからは、自治体のリーダーは、国や電力会社に騙された、と主張することで、責任を転嫁することは許されない。
福島第一原発に関しても、東電や国は、「十分に安全である」と言ってきたのだ。それでも、このような事故が起きた。これからも、自治体の責任者が、事業者との間で、「安全にやってくれ」「はいわかりました、万全の対策をとりました」といったやりとりで済ませるのならば、それはまったくの責任放棄であり、そして同時に極限の愚かさである。
われわれが今理解していることは、国や事業者が口を極めて「安全だ」と主張しても、そのことは、いささかも安全性の保障にはならないということである。そのときなお、いかにして原発の安全性を確保するか。それがわれわれ全員に、とりわけ原発の立地自治体のリーダーに提起されている問いである。
だが、いかにして、「想定外のリスク」に備えることができるのか? 「それ」に対して備え、対策をうっているということは、「それ」が「想定されている」ことを意味しているのだから、「想定外に備えること」は、原理的に不可能なことではないか? 「私は想定外のことにも備えています」という言明、「私は想定外のことも想定している」という言明は、嘘つきのパラドクスと同じ矛盾を抱えている。想定外のリスクに備えることなど、論理的に不可能だ。ただし……ここで考えてみるのだ。パラドクスが出てくる原因がどこにあったかを。嘘つきのパラドクスがパラドクスなのは、自己言及だからである。想定(外)のパラドクスも、同様である。自己言及である限り、それは不可能な要求である。このことを肝に銘じて、考察を前に進めよう。
どうして想定外のことが起きるのか? そもそも、どうやって、想定の範囲は決められているのか? 国や電力会社は、さまざまなリスクを想定するだろう。だが考えてみれば、彼らは原発を建設したいのである。彼らは、原発を建設するという目的や使命をもっている。このとき、「原発を造る」という目的や当為の方から逆算して、「想定」が決まることになるのだ。つまり、原発を造るという目的の実現を阻害しない限りのことが想定されるのである。原発を造ることが可能なぎりぎりの限界が、想定の範囲を規定している。原発の建設を不可能なものにしてしまうような厳しいリスクは、想定されることはない。リスクについての認識があったうえで、原発を造ることができる、造るべきだという実践的な判断が導かれているのではなく、逆に、原発を造るべきだという実践的な要請の方が前提になって、リスクについての予想が決まっているのである。だから、原発が想定されているあらゆるリスクに対して安全なのは、当たり前である。「私はほんとうのことを言っている」という命題が役に立たないのと同じように、「この原発は安全だ」という宣言は、根拠をもたない。
それならば、どうしたらよいのか? 簡単である。自己言及の閉鎖的循環を破ればよいのだ。他者が想定すればよいのだ。原発を建設する者、原発の建設を目的とする者、原発の推進派、こうした者にとって〈他者〉である者が、リスクを想定すればよい。リスクを想定する者と原発を建設する者とを分離すればよいのである。
もっと端的に言えば、原発に反対している者、脱原発派が、リスクを想定すればよい。彼らは、原発が建設できるかどうかなどということはいささかも考慮していない。というより、原発ができない方がよいと思っている。そういう者こそ、あらゆるリスクを、起こりうるあらゆるリスクを想定するだろう。彼らこそ、想定外のリスクを──推進派にとっては想定できないリスクを──想定するのである。
もし安全な原発がありうるとすれば、今までとは圧倒的に異なった意味で安全だと見なしうる原発があるとすれば、それは、脱原発派が挑戦的に提起してくるようなリスクにも耐えられるような原発を建設できた場合のみであろう。脱原発派の挑戦、原発にとって〈他者〉であるものの敵対こそ、安全な原発にとっての鍵である。
だが、ここで重要な問題がある。原発推進派と脱原発派との対立において、前者の方が、圧倒的に有利な社会的な立場にあるということである。推進派の方が、権力や影響力において、脱原発派よりも優越しているのだ。原発推進派は、多様で厖大な資源をもっているからだ。推進派の中核は、東電を初めとする電力会社だから、経済力は圧倒的である。財界でも重要なポジションに就き、献金等を通じて政治家にもきわめて強い影響力をもつ。電力会社は、多額の広告費を使っているので、マスコミへの影響力も半端ではないだろう。気に入らないテレビ番組や新聞・雑誌の記事には、いくらでも「抗議」することができる。天下り先も提供しているから、官僚とも癒着している。そもそも、「政府」がもうひとつの巨大な推進派である。
原発の安全性という観点からして最も困るのは、研究者の領域、大学等のアカデミックな研究機関において、推進派の方が、大きな権力や影響力をもつということである。まず、推進派の方が多くの研究費をもつ。おそらく、推進派の方が昇進機会に恵まれている。そもそも、推進派の研究者の方がずっと多い。
原発についての研究は、多額の研究費を必要とする。研究費の源泉は、簡単に言えば、国と(大学に研究費を寄付する)企業である。企業とは、電力会社、原発の事業者である。国も企業も原発の推進のためにカネを出しているのだから、結果的に原発の増設や維持につながる研究に有利なことは明らかである。
研究者の側からすると、十分な研究費を使って、多くの業績を挙げ、同時に、学界や大学で大きな影響力をもった先輩研究者に認められなくては、研究者としての成功は望めない。となると、道徳的・政治的な価値判断として原発推進かどうかとは必ずしも関係なく──むろん自身の規範的な判断としてそうしている人もいるだろうが──、大多数の研究者が、研究費や人事の面で優遇されている、原発推進寄りの研究に打ち込むことになるだろう。
しかし、述べてきたように、安全な原発を建造するための鍵は、脱原発派からの挑戦である。安全のためには、脱原発派が提起する「想定外のリスク」が、絶対に不可欠である。ただし、その「想定外のリスク」やその危険性の判断が、たんなる素人の印象論ではなくて、十分な科学的な根拠に裏付けられたものでなくては、推進派を脅かすことはできない。つまりは、脱原発へとつながりうる研究が、原発推進に指向した研究と同じ程度に発展し、厚みをもっていなくてはならないのだ。
こうしたことを前提にして、私の提案である。国や企業が原発(推進)に関連する研究費を出すときには、それと同額の研究費を脱原発派の研究者にも供与するように、法律で義務づけるのだ。たとえば、東電が、ある大学の工学部に、原子炉の研究のために、寄付講座として一億円を提供したとしよう。その場合、東電は、同じ一億円を脱原発派の研究者にも寄付しなくてはならない。このようにすることで、初めて、研究のバランスをとることができる。
しかし、実は、これだけではまだ素朴過ぎる。重大な障害が残っている。誰が脱原発派の研究者なのか? 研究者は、誰もが、価値中立の立場で研究している(ことになっている)。胸に「原発推進派」「脱原発派」という印を付けているわけではない。東電のような事業者は、誰のどんな研究に資金を提供しようが、いくらでも「脱原発派に研究費を寄付した」と言いくるめることはできる。そして、彼らは、脱原発派の研究を経由して、安全な原発を開発した、と主張するだろう。
つまり、脱原発派への研究費の分配を、原発の推進を目的としている主体に委ねてはならない。脱原発派に効果的に研究費が回るようにするためには、脱原発を心底から望む主体、脱原発を自分たちの利益であると見なす主体に、研究費の分配を任せなくてはならない。そのような主体はいるのか? いる。それこそ、原発の立地自治体である。
はっきり言っておこう。原発の立地自治体は、原発推進の立場にたってしまえば、それだけでもう安全性への責任を放棄したに等しい。立地自治体が原発を望んでいると見られたとたんに、彼らは、国や事業者からバカにされ、好きなようにあしらわれてしまう。先ほど述べたような、儀式的なやりとり、「安全安心の確保のために万全を期してください」「お任せください」という儀式的なやりとりでごまかされてしまうだろう。
立地自治体がほんとうに安全と存続を望むならば、彼らは、断固とした脱原発派でなくてはならない。仮に最終的には原発を受け入れることになるとしても──というかすでにある原発はすぐには消えてなくならないので受け入れざるをえないのだが──、彼らは脱原発を掲げていなくてはならない。ちょうど沖縄が、米軍基地を置いてはいるが、断固とした反基地派であるのと同じように、原発立地自治体は、最も強い脱原発派であるべきだ。
脱原発派への研究費の分配は、その立地自治体に任せるのがよいだろう。立地自治体にとっては、脱原発の研究が進み、原発に対して厳しい条件が課されれば課されるほど、自分たちも安全だということになる。立地自治体は、脱原発の研究の深化に死活的な利害を賭けている。
脱原発派は、国や事業者から委ねられた、脱原発のための研究費を、独自の判断で活用すればよい。自分たちが、「脱原発派としてこの研究者ならば信用できる」と判断するような研究者のグループに、直接、寄付してもよい。あるいは、脱原発のため研究施設を、大学の外に作り、信頼できる研究者を呼び寄せるというやり方もあるだろう。さらに付け加えておけば、日本各地の立地自治体は、互いに資金を出し合って、国や事業者からの研究費にそれを上乗せして、脱原発の研究にまわせば、彼らの安全性はますます高まるはずだ。
もう一度、整理する。次のような仕組みを構築すればよい、というのが私の提案である。国や事業者が、大学等に原発関連の研究費を出すとき──当然それは原発推進につながる研究費と解釈される──、彼らは、それと同額の脱原発指向の研究費を、原発の立地自治体(の連合体)に委託する。原発の立地自治体(たち)は、その脱原発研究費を独自の判断で分配する。こうすることで、「想定外のリスク」を想定することが可能なものとなろう。
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(続く)
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