5.20.2011

時評 第2回

福島第一原発の現場労働者を
支援しよう

大澤真幸

新著を刊行した大澤真幸さんによる「時評」第二回です。原子力発電所の帰趨をにぎるのは作業員の方々である。彼らの苛酷な労働環境を想像するとき、私たちにできることはないのだろうか、と思わずにいられない。大澤さんの提言をお読みください。


今、日本で、いや世界で最も重要な仕事、最も多くの人の最も基本的な運命を左右する仕事は、東京電力福島第一原子力発電所にある。日本の運命は、福島第一原発の労働者の働きにかかっていると言って、過言ではない。したがって、われわれ全員が、日本人はもちろんのこと世界中の人々が、福島原発の労働者を支援してもよい立場にある。

今回は、この福島第一原発の労働者について書いておく。内容は難しくはない。ごく単純なことばかりである。


福島原発の労働者たちの士気は、目下のところ、非常に高いと聞いている。おそらくその通りであろう。

あのような危険で劣悪な環境で、しかもたいした報酬も得られなくても、強い使命感をもって全力をあげて働いてくれる労働者がたくさんいる。これが日本人のよいところである。おそらく、他の多くの国では、労働者はこれほど従順ではない。反抗したり、職場を放棄したりする労働者がたくさん出てくるだろう。

とはいえ、福島第一原発の日本の労働者の士気の高さも、いつまでも続くとは限らない。最終的な廃炉までのプロセスを考えると、まだ長い道のりが、何年間もかかる道のりが残っている。その間に、徐々に人々の福島原発への関心も低下してくるだろう。マスコミからの注目も、だんだん受けられなくなるだろう。そうなれば、労働者たちの士気の低下は、なかなか避けられない

しかし、その仕事の重要性、それがもたらしうる危険の大きさを考えると、廃炉までの長い過程のどの瞬間においても、労働者たちに気を抜いてもらっては困るのである。その上、必要な労働者の数は半端ではない。一人の労働者は、積算被曝線量が一定の値(250ミリシーベルト)を超えると、もうそれ以上は原発で働くことができないので、新しい労働者を補充しなくてはならない。こうしたことを考えると、必要となる労働者ののべ人数は、気が遠くなるほどである。彼ら全員に、最後まで高い士気をもって働いてもらわないと、われわれが困ることになる。このことを念頭に、福島第一原発の労働者の支援のことを考えなくてはならない。


労働者たちに高い使命感、高い士気をもって働いてもらうための第一の最も効果的な方法は、言うまでもなく待遇の改善である。その中でも、最も重要なことは、再び言うまでもなく、賃金、金銭的な報酬である。高い賃金を支払うということは、われわれが、その仕事を高く評価していること、大事だとみなしていることを示す最も端的なやり方だ。あれほど危険で重要な仕事に従事している、福島第一原発の作業員の労働は、高い報酬に値する。

福島第一原発の労働者の報酬として適当な額、少なくとも目標として設定されるべき金額は、被災地や戦地で働くときの自衛隊員が受け取る金額ではないだろうか。現在の福島原発の労働者の仕事は、その困難さ、その危険度、そして他の人々の生命や安全への影響の程度や範囲を考慮にいれた重要度、そのいずれの観点で考えても、津波の被災地で働く自衛隊員の労働、海外の紛争地での自衛隊のPKO活動に勝るとも劣らない。自衛隊員は、過酷な被災地や海外PKOにおいては、通常の給料に加えて、特別な手当をもらっているだろう。福島原発の労働者も、それとほぼ同額の賃金を受け取ってしかるべきである。

東京電力は、原発事故の被害者への補償も重要だが、それとともに、原発労働者の報酬をそれにふさわしいものに挙げるべく考慮すべきである。原発の現場で働いている労働者の多くが、東京電力やその協力企業の直接の社員ではなく、孫請け、曾孫請け等の下請け企業の(非正規雇用を含む)社員である、と報告されている。東京電力がいくら高い賃金を支払う用意をしても、現場の労働者との間に、何段階もの下請け企業が入ると、あるいは人材派遣会社やコーディネーターなどが入ると、労働者たちが実際に受けとる賃金・日当は、非常に低いものになってしまう。

だから、東京電力や協力企業は、できるだけ多くの労働者を、直接雇用し、彼らに十分な報酬がわたるように努力すべきである。あるいは、東電は、末端の作業員に十分な報酬が与えられているかを監視すべきである。もしどこかの下請け企業の作業員が、不当な低賃金で働かされている場合には、東電や協力企業は、その下請けとの契約を打ち切るべきである。


待遇として考慮に入れるべきことは、賃金だけではない。たとえば、労働者たちの食事や宿舎はどうであろうか。報道されているところに従えば、事故後間もない時期に比べれば、これらの点については若干改善されている。しかし、とうていまだ十分なものとは言えない。福島は、遠い外国ではなく、この豊かな日本の一部なのだから、お金さえつぎ込めば、食事や宿舎の改善は難しくはない。

宿舎に関して言えば、床での雑魚寝などもってのほかである。これから何年もの作業が続くことを思えば、当然、全員がきちんとしたベッドで眠ることができなくてはならない。できることならば、労働者の一人ひとりに個室が与えられることが望ましい。津波で家を失った人たちの仮設住宅も緊急に必要だが、それに劣らず、福島第一原発の労働者たちの住宅が重要である。東電や国、そして関連諸企業は、可及的に速やかに、労働者たちのために快適な宿舎を確保し、建設する必要があろう。


実は、私自身は、原発はすべて国営にすべきだと考えている。今回の福島第一原発の事故を見れば明らかなように、原発は、一つの企業の私的な利益を中心にして運営すべきものではない。とりわけ事故のときには、どんな大企業でも対応できない。そもそも、企業にとっての目的は、われわれの安全や幸福や正義とは合致しない。むろん、政府も信用できないという人も多いだろうが、私企業よりはましである。だから、原発は国営にすべきである。

原発が国営になれば、原発で働く人はみな国家公務員である。そうなれば、彼らに「自衛隊員並みの待遇を」という目標も、比較的容易に達成されるだろう。そもそも、原発事故に対応するための部隊や部署を、自衛隊の中に作っておくことも容易になる。

とはいえ、原発の国有化は、直ちには実現できない。が、せめて福島原発だけは、例外的な緊急事態として、もっと直接に国の管理下におくことはできないのだろうか。国の責任において、現場の作業員も雇い、その報酬を支払うことはできないのか。福島原発に限定した緊急的な国営化であれば、比較的容易に実現できるはずだ。そのことは、現場の労働者の雇用環境を飛躍的に改善するだろう。


さらに、私が提案しておきたいことは、現場の作業にボランティアを使用できないか、ということである。津波の被災地には、多数のボランティアが集まった。福島原発でも、ボランティアを募集すれば、かなりの数が集まってくると私は推測している。確かに危険な仕事だが、とてつもなく価値のある仕事である。損得抜きで働きたいという人は、少なからずいるだろう

原発の労働に、何か資格が必要なわけではない。むろん、中には長期の訓練や大量の知識を前提にしなくてはできない仕事もあるだろう。しかし、多くの仕事は、短時間の研修や訓練ですぐにできるはずだ。そういう仕事に関しては、ボランティアを受け入れたらどうだろうか。彼らは、高い使命感をもって応募してきている。先にも述べたように、積算被曝線量の問題があるから、もともと労働者をどんどん交替してかなくてはならない。そのことを考えれば、短期のボランティアでも大歓迎である。

もし必要ならば、また可能であれば、Cash for Workのボランティアであってもよいだろう。そうすれば、ある程度の雇用創出効果ももつ。


万が一、現場作業員のボランティアについては多少の抵抗があるとしても、少なくとも、彼らをサポートする仕事についてならば、ボランティアが、簡単に実現できるのではないか。

たとえば、作業員たちの食事を提供する仕事である。私は、次のようにしたらとても素晴らしいと思っている。東京や仙台などの一流シェフが、出張サービス式に、一定期間、現場の近くに滞在して、食事を提供したらどうか、と。さらに、何人ものシェフ、多様なシェフが互いに協力できれば、たとえば、今週は中華の○○、次はイタリアンの××、その翌週は寿司の□□等々と、順番に出張サービスをすることもできる。

一流のおいしい食事がこういう形式でふるまわれれば、現場の労働者の士気はたいへん高まるだろう。


最後に、脱原発派の人たちに提案したい。脱原発の推進者、とりわけこの度の福島第一原発の事故よりも前からずっと脱原発のために運動してきた人たち、そういう人たちは、福島原発の事故の収束のためにできるだけ協力した方がよい。

協力の方法はいろいろ考えられる。最も直接的なやり方は、原発の作業員に志願するというものである。他にも、熱心な脱原発派はたいてい原発や放射線に関する専門的な知識をもっているから、何らかのルートを通じて、有益な情報を提供するとか、収束への有効なブランを提案することも、ひとつの協力の仕方であろう。

もともと、脱原発派は、原発の危険性を人一倍心配し、自覚している人たちである。そういう人たちは、今度の事故についても、とりわけ深く憂慮し、事故の収束を強く願っているに違いない。そうであるとすれば、ただ傍観しているだけではなく、あるいは批判しているだけではなく、積極的に原発事故の収束に協力したほうがよい。事故の被害は、原発反対派か推進派に関係なく及んでいるのだから。

今、脱原発派は事故の収束をことのほか強く願っている、と書いた。実際にその通りであろう。しかし、脱原発派は、逆の邪推を受ける可能性が高いことをよく自覚すべきである。「お前らは、ほんとうは事故を願っているのではないか」「事故が大きくなるのを望んでいるのではないか」…そのように邪推される可能性が、少なからずあるのだ。むろん、私自身は、脱原発派のほとんどが、今回の事故のできるだけ安全な収束を心底から願っていると確信している。しかし、脱原発派が実際にどうであろうと、この種の邪推は避けがたい。

長年原発を批判してきた清水修二は、JCO臨界事故に関連して、率直にも次のように述べている。


「原発批判を口にしている私自身の心理の奥底に、原子力事故の到来を歓迎する危険な心理が潜んでいることを、私は正直に告白します。平生から〈きっと事故が起こる〉と警告している者にとっては、事故の発生はアタリですから〈それみたことか〉と快哉を叫びたくなる気持ちは抑えがたいものがあります。きわめて不道徳なことであることは百も承知でありつつも、危篤状態の大内さん〔臨界被曝したJCOの職員――大澤注〕の容態が持ち直すことを望まない心理すら、私自身の内部で頭をもたげることがなかったとはいえない。自分の手落ちで人が瀕死におちいればワラにもすがる思いで回復を神に祈るにちがいありませんが、自分自身に落ち度がなく〈向こう側〉の失策であるという事情が、つい良心を鈍らせます。これは俗人の業のようなものかもしれません。」
(『臨界被曝の衝撃』リベルタ出版、2000年)



これほどまでの正直な告白は、清水が不道徳な人物どころか、尊敬すべき高潔さをもった人物であることを示している。

いずれにせよ、実際はどうであれ、脱原発派は、「事故の被害が大きいことを願っているのではないか」と邪推される恐れがあることを自覚しておかなくてはならない。また、脱原発派は、仮に一方では、事故が小さいことを祈るように願っていたとしても、他方では、原発の撤廃という目的との関係では、事故がある程度大きく、人々が原発の危険を思い知った方が戦略上有利である、という判断も働かせるだろう。

しかし、脱原発派は、当初の彼らの動機に素直に――つまり原発の危険を回避し克服したいという願望に素直に従って――、福島第一原発の事故のできるだけ安全な収束に向かって全力で協力したほうがよい。脱原発の主張に説得力が宿る前提は、そう主張する者が、心からその危険を自覚し、それを回避したいと望んでいるということである。そうした自覚や望みこそが、原発の全廃という主張に、鬼気迫る力を与えるのだ。もしここで、実際に起きた原発事故に対しては素知らぬ顔をして、「それみたことか」というような態度をとれば、脱原発派の願いが本物であったかどうか、ということに疑いがかけられてしまう。原発事故の収束に向けた積極的な協力は、脱原発にとっても、必ず有利に作用する。

さらに細かいことを言えば、脱原発派は、次のようなことも考慮に入れておかなくてはならない。この事故は、どのくらいの時間がかかるのかわからないが、いずれは「終わる」。今のわれわれから見れば、すでにこの事故は、計り知れないほどの被害を物的にも、精神的にももたらしている。がしかし、被害が大きい/小さいというのは、いつでも相対的な判断である。事故を最終的に終わらせた主体、具体的には電力会社とか政府とかは――つまりは原発の推進の側にある者は――、「そりなりに小さな被害で済んだ」「被害は最小限に食い止めた」というようなことを言うようになるかもしれない。あれほどの事故であったのに死者が出なかったとか、チェルノブイリよりはましだった、というようなことを、まるで「功績」のように言い立てるかもしれない。

そうした主張――厚顔無恥とも思える主張――が、ある程度、受け入れられてしまった場合に、脱原発派は劣勢に回ることになる。そういうことにならないためには、脱原発派は、今のうちから、事故の収束に協力したほうがよい。そうしておけば、仮に原発推進派が、「事故の被害が小さくて済んだ」というようなことを恥知らずにも主張してきたとき、脱原発派は、「小さくて済んだのはわれわれが協力したからではないか」と言い返すことができる。

脱原発派は、旧約聖書的な表現を使えば、「禍の預言者」に近い。禍の預言が共同体の選択を決定するほどの力をもつのは、預言していることがほんものの禍である場合だけ、預言者自身が全力で回避しようとしている禍である場合だけである。

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