5.10.2011

時評 第1回

浜岡問題の隠喩的な拡張力

大澤真幸

まもなく新著を刊行する大澤真幸さんが、毎週「時評」を寄せてくださることになりました。第一回は、浜岡原発。ある政治的な決定に触れると、だれしも何か不満を触知する、そんな習性はどこに起因するのか、どうやって脱出するか。

ウィンストン・チャーチルは、労作『第二次世界大戦』の結末で、政治の役割、政治における決定の神秘について論じている。学者や専門家は、いろいろな案件について、複雑で多様な分析結果を提示する。その分析結果から示唆される選択肢のそれぞれに関して、それに賛成すべき理由ひとつに対して、反対すべき理由がふたつあるとか、逆に、反対すべき理由ひとつに対して、賛成すべき理由がふたつあったりする。専門家たちは、だから、必ずこう言う、「一方でOn the one hand...、他方でOn the other hand...」と。こうした状況で、誰かが、はっきりと決定しなくてはならない。決定というこの行為が十分な根拠をもつことは、絶対に不可能である。その不可能なことを引き受ける者、それが政治家だというのが、チャーチルが言わんとしたことである。

専門家の分析結果と政治家の決定とをつなぐ、必然的なルートはない。両者の間には、必ず、埋め尽くされない溝が残る。政治家は、その溝を飛び越さなくてはならない。

菅直人総理が浜岡原発の停止を決断したときにも、このような飛躍があったと考えなくてはならない。誰がどのように総理を説得したのか、私は知らない。総理やその周辺にどのような思惑や予想やねらいがあったかもわからない。が、いずれにせよ、そこには、決定に固有な飛躍があったことは確実だ。だから、停止の決断を正当化する確実な根拠を示せ、と迫る人がいるが、それは不可能なことだ。

私たちは、とりあえず、この決定を称賛すべきだろう。

たとえば、今、私たちは、地震・津波から原発事故へと連続する「想定外」の災難に苦しんでいる。どうやったら、「想定外」の危険を回避したり、乗り越えたりすることができるのか? 何しろそれは「想定されていない」のだから、定義上、そうした危険に対策をうつことはできないのではないか。想定の範囲を広げることはできるが──たとえばこれからは津波のことも考慮に入れておこうといったかたちで──、しかし、想定外の危険一般に対抗することはできないのではないか。ある意味で、その通りである。

「ある意味で」と限定を付けたのは、明確に根拠づけられた結論にだけ頼るならば、本来的に、想定外の危険には対抗できない、ということである。「想定外」の危険に対抗することができるものがあるとすれば、根拠のない決定だけである。想定された根拠との関連では、ただの飛躍としか言いようがない決定のみだ。

だから、この度、総理が(めずらしく)決定したこと、決定らしい決定をくだしたこと、そのことを称賛しよう。これを寿ことほごう。

で、そのあとどうすればよいのか? このあと、われわれはどうしたらよいのか?

総理が、あるいは政治家が何かを決定し、行動を起こせば、人は、どうしてもこれを批判し、反対し、そして足を引っ張りたくなる。総理が浜岡原発の停止を決断すれば、つい昨日まで、脱原発だ、浜岡は危ない、と主張していた者までもが、「夏の電力が足りない」「景気が低迷する」「現地で解雇される人がたくさんでる」「現地との話し合いが足りない」等々と、批判的な論点を列挙する。

しかし、こうした批判は安易な道だ。先に述べたように、もともと、一つの選択肢に対しては、それを支持する理由と同じくらいそれに反対する理由がある。それを承知でなされるのが決定である。こういうときに反対派にとどまるということは、決定という重い責任を永遠に回避しようという態度である。それは感心できない。

ならば、われわれとしては、今回は「大いに満足である、それでよし」ということなのか? これも違う。

誰もが体験している、次のようなことを想い起こしてもらいたい。

人は、いろいろな不満をかかえ、いろいろなことに問題を感じている。些細なことから大きなことまで。ごく私的に思えることから公的なことまで。たとえば、ある人は通勤のための公共交通機関がないことに不満を感じている。別のある人は、子どもを預ける保育園が欲しい。…

このように、人には、それぞれの特殊な状況に応じた特定の困難や課題がある。そのとき他人が、とりわけ行政機関が、そうした困難や課題を特定し、その目録を作成し、そして運がよければ、一つずつ順に解決してくれたりする。あなたの家の近くをバスが走るようになったり、近所に保育園が造られたりする。これでよかった、万々歳、ということになるだろうか?

しかし、次のように感じることはないだろうか。行政機関等が「あなたの問題はこれこれですね」と特定し、「ならばこうしてあげましょう」とそれ特有の処置を取ってくれたとき、「何か違う」「どこかうさんくさい」、「そもそもそういうやり方が不満をかきたてる」と感じることはないだろうか。あなたが解決して欲しいと言っていたその問題が明示的に特定され、まさに解決されたのに、「これはちょっと違う」「私が求めていたものはこれではない」と感じることはないだろうか。

こういうとき何が足りないのか? あなたが欲しいと主張していたまさに「それ」が与えられているのに、あなたから一体何が奪われているのか?

脱原発派が、浜岡原発の停止の決定を聞いたときに感じているのも、この種の〈不満〉である。もともとの「不満」が特定され、解決されたときに、それでも残ってしまう〈不満〉がある。未だ〈不満〉が残るので、どうしても総理を批判してしまうのだ。まさに求めていたものが得られたのに、文句を言ってしまうのである。

だが、こういう批判や文句は、〈不満〉──不満を超えて残る不満──が何であるのか、それが何に由来するかを理解していないがためになされるものである。それは、ただのわがままの問題ではない(「お前が欲しいといったから買ってやったんじゃないか、なぜまだ文句を言うのか」という問題ではない)。〈不満〉には、実は、ちゃんとした存在理由があるのだ。

もう一度、整理しよう。人にはそれぞれ特有の苦境や課題があるのだが、それを「シングルイシュー」的に特定され、対処されると、そのやり方自体に何か基本的な過ちがあるような感覚をもつことがある。そうしたやり方が「何か」を奪っているのだ。その「何か」とは何か? それは、特定の困難の隠喩いんゆ的な拡張力のようなものである。

どんな困難、どんな特定の苦境にも、隠喩的な拡張力が備わっている。隠喩的な拡張力とは、その特定の困難がそれだけにとどまらず、より大きな困難、究極的には普遍的な困難の隠喩となり、それら大きく普遍的な困難の代表となろうとする潜在的な力のことである。「浜岡の問題は、浜岡だけの問題ではない」と主張されるとき、実は無意識の内に、この隠喩的な拡張力への訴求がある。

私の考えでは、どんな特定の問題にも、隠喩的な拡張力がある。一連の特定の特徴によって識別された個人(たち)の問題には「とどまらない」という性質が、どんな特定の問題にもある。「これは○○地方だけの問題ではない」「これは身体障害者にとってのみの問題ではない」等。シングルイシュー的に問題を特定されて処遇されたときに、〈不満〉が残ってしまうのは、このとき、問題に本来備わっていた、隠喩的な拡張力が奪われているからである。

今、あらゆる特定の問題には、不合理にも見えかねない過剰があり、それが隠喩的な拡張力という形をとる、と論じてきた。しかし、備わっている隠喩的な拡張力の強度は、問題ごとに異なっている。隠喩的な拡張力が強い問題というものがある。原発の問題、われわれの生活すべての前提であるエネルギーの供給の問題は、最高度の隠喩的な拡張力をもつ主題である。

われわれがなすべきこと、それは、原発の問題、浜岡の問題に備わっている隠喩的な拡張力を、最高度に活用することである。つまり、その問題を、どこまでも妥協することなく、隠喩的に拡張していくことである。まさに、浜岡の問題は浜岡だけの問題ではない、ということだ。それは、浜岡の原子炉を二年間停止することだけで解消される問題ではない。だから、われわれが今、総理に対して言うべきは、こうであろう。「総理、よくやった。しかしもっと…」。
 

[著者紹介]

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