5.04.2011

加藤陽子
絵・題字 牧野伊三夫

母校・桜蔭学園での講演記録 前編1
一昨年の秋、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の著者・加藤陽子さんが、母校である桜蔭学園を訪れました。そのときの講演録を2回に分けてお届けいたします。掲載にあたり、一部加筆しています。

14歳
――丸ちゃん先生がもたらしてくれた、数学への目覚め

こんにちは。加藤陽子です。私は現在、東京大学文学部で日本近代史を教えています。今日は、みなさんに、私がどのように進路を決めていったかということ、そして私の専門分野である歴史学についてお話しするためにやってきました。母校で講演するのは初めてで、実はとても緊張しているのですが、みなさんと同じ中高生だった頃を思い返しながらお話ししていきたいと思います。

私は現在50歳になりますが、子どもがいません。ですので、みなさんのような可愛くて賢いお嬢さんたちを見ていると、ひとりくらい連れて帰ってしまおうか(笑)、なんて思ってしまいますね。私が在学していた20数年前と違って、なんだか桜蔭学園も芋畑から花畑へと変容を遂げているのかもしれません。

みなさんの世代ですと、本当は大好きなお父さんやお母さんとも頻繁に衝突することもあるでしょう。ちょうど朝、けんかして家を出てきて、「あの先生は子どもがいないのか。ついていっちゃおうかな」なんて思ってくださる人も、ひとりくらいはいるかもしれません。ですが、私は面白い本や史料を読んでいるとすべてを忘れ、夜通し起きていて午前7時ぐらいまで研究してしまって、さあ寝ようか、などという生活をしているのです。ですから、私の家の子どもになどなってしまった日には、2、3日ご飯をもらえないなんてことにもなりかねませんので、うちの子どもになるのはお薦めできません(笑)。

なぜこのようなくだらない話をしているかというと、私が、みなさんと同じ中学2、3年生の頃に憧れていた桜蔭の先生がいらっしゃいまして、その先生にはお子さんがいなかった。そこで、私はその先生のうちの子どもになりたいなぁ、などと毎日妄想していたからです。丸山英子先生という方で、その先生が私に数学の夜明けをもたらしてくださったのでした。

みなさんは例によって、先生が教えたことは決して真似しないくせに、先生の歩き方や口調を真似したり、あだ名をつけたりするのにかけては天才的な才能を発揮されていると思います(笑)。私たちは丸山先生を尊敬していましたので、「丸ちゃん」という、あまり悪意のないあだ名で呼んでいました。私は丸ちゃん先生が、とても好きでした。

先生はお茶の水女子大学の数学科を出られて、ご主人は東大の、たしか農学部の先生でいらした。みなさんもそうだと思いますが、だいたい先生方のプロフィールというのは、なぜか生徒の耳に入ってくるものです。

私は中学から、理系志望から文系志望へと変える高校2年生の秋まで、ずっと数学は丸ちゃん先生に習っていました。先生はいつも髪をきれいに高く結っていらして、中学生だった私が授業時間中に何をしていたかというと、今日の先生の髪のお団子の高さは10センチか、はたまた20センチかとか、あのスタンドカラーのシャツの白さが目にまぶしいぞ、とか、そういうことばかりを見ていました。そして、こんな先生がお母さんだったら毎日が天国だなぁと想像をめぐらせていたのです。

丸ちゃんはきれいだな、かわいいななどと憧れて眺めていましたので、気がつくと中学1年末の数学の成績は悲惨でした。真ん中よりはるかに低かったと思います。ここで私はかなり反省したのです。これほど素敵な先生に習っていて、お母さんになってほしいなぁと思っている、そういう先生様の授業に、このような恥ずかしい成績をとっていていいのか……。そこで少しずつ私も目覚めまして、少しずつ大人になっていくわけです(笑)。

当時の学年は5クラスあったのですが、私は丸ちゃんのおっかけをやっていましたので、ちょっと怪しいですが、休み時間になるたび、先生が授業されていた他のクラスの教室の黒板をのぞきに行っていました(笑)。先生が授業を終わったあと、黒板を消し忘れたりしますと、書かれた図が残っているわけです。中2、中3の幾何などでは、さまざまな図形が黒板いっぱいに整然と書かれている。今のように、製図が可能なパソコンのソフトがあったり、OCRがあったりする時代ではないですから、先生はすべてのクラスの黒板に、同じように寸分違わない図を描いておいでだったということが、ファンゆえにわかるわけです。

先生は毎回、すべての教室の黒板に、一番後ろの席からも見えるように、きれいな図を書いて、その一つひとつをまさにピタゴラスになったつもりで証明なさる。これをおそらく毎年くり返し、全クラスになさっているのだろう――おっかけファンの頭に、それこそ、ようやく、このような啓示が舞い降りるわけですね。

この考えが頭に浮かんだとき、髪をきれいに結いあげている先生の美しいフォルムの奥に、数学へのたしかな熱意、数学とともに生きることへのたしかな決意が、中学生の私の目にも見えたのです。大人の女性の、仕事への熱情というものに触れて、私はすごく打たれました。大人の真剣さというのは、子どもには正直に伝わるものですね。まあ、愛があるからですけれども。


それで、私は本当に一生懸命、数学を勉強しました。私は単純なところがありまして、やろうとなると一生懸命やるのです。中学2年3年と数学の成績はぐんぐんと伸びまして、数学は、最も自信の持てる科目の一つになりました。また、私の愛は移り気ではないので(笑)、それ以降も、理系から文系に転じた高2まで、この数学の成績はキープしておりました。

好きな人が熱意を込めてやっているもの、あるいは好きな友人が敬意を表しているもの、そのようなものを、はじめは横から眺めているだけでもいいのです。だんだんとそれが自分の関心領域に入ってくるようになれば「しめた」もので、それが学びの熱に通じていけば、世界はどんどん広がっていきそうですね。

みなさんは、これから将来的に、友達関係がうまくいかなくなったり、お父さんやお母さんとうまくいかなくなったりすることがあるかもしれません。そのようなとき、ちょっと自分の眼差しの先を変えてくれるものに出会えると良いと思います。学校に行けば好きな先生に会えるとか、変わった先輩が部活にいるとか、そのように眼差しを斜めに向けてみる感じで生きてみるというのも、きっと面白いはずです。

ひとりの友人の才能と、
「理系ではない」というふんぎり

それでは、なぜ私が理系に進まなかったかというと、消極的な要因としては、数学の才能というもの、その本当の才能というものがない、ということに、あるとき気づかされたからです。

私は理系にしようか文系にしようか、高校2年まですごく悩みました。本来は単純な電気信号のような神経の反応が、どうして、脳という部位に集積されると、複雑に見える感情に転ずるのか。池谷裕二先生という、東大の薬学部の先生がおいででして、『複雑な脳、単純な「私」』(朝日出版社)を書かれましたが、まさに池谷先生がやられている学問領域に私は興味がありました。今だから、このように整然とまとめられるわけですが。将来に選ぶ仕事が理系だとすれば、こういった分野をやりたいなぁと、当時は漠然と思っていました。

一方で、エジプトのピラミッドのように、王様をミイラにしてまでも来世に送ろうとする発想というのは、どのような経緯で生まれてくるのか。将来に選ぶ仕事が文系だとすれば、こういった問題についてもやりたいなぁと夢想していました。

みなさんのなかでも、まだ決めかねている人が多いかもしれませんね。まずは自分の興味を広く取っておいたほうがいいと思います。私自身、中学2年生からは社会科部と物理部というふたつの部活に入っていました。練習の厳しい運動部などでなければ、掛け持ちが可能だったのです。そのふたつの部活動で出会った人たちが、さらに私の進路を決めたともいえます。

丸ちゃんは熱心な先生でしたので、高校にはいってからの春休みと夏休みには、通常の宿題以外に、希望者向けに「進んだ問題」という課題を出してくださいました。ものすごく難しい問題が2題出されて、これが解けた人は先生の自宅宛てに送ってよいと。それで先生が添削してくださるのですね。

私は数学について寝ても覚めても好きだとは言えない訳でして、動機が不純ですから。しかし、やはり愛はいわおをも貫く(笑)。好きな先生に丸をつけてもらいたくて、休みのたびに一生懸命取り組んでいました。

解答用紙が先生から戻ってくると、仲の良い友達同士で集まって、それぞれの解き方の見せ合いっこをしていたのですが、先生が他の生徒さんに、「このような解き方によく気がつきましたね。良く出来ています」などと書いているのを見ては嫉妬したり、そんな邪悪な気持ちもあって見せ合っていたことも事実です(笑)。

そこで、私はある友人の才能に気づいてしまいました。私の同級生で、同じ物理部だった増澤美佳さんという人です。

ノーベル賞を獲った日本人で、みなさんの印象に残っているのは、直近でいいますと、2008年にノーベル物理学賞を獲った益川敏英先生と小林誠先生ではないでしょうか。宇宙や物質の成り立ちの解明に関わることなのですが、クォークという自然界の最も基本的な粒子が6種類存在することなどを予言した先生たちです。これが2001年に実証されて、おふたりはノーベル物理学賞を受賞します。

益川先生がやっていることは理論物理というもので、文字通り物理現象の理論を構築する学問です。そして、実験によってクォークを見つけ、実証していくのが実験物理学という学問で、小林先生はこちらをやっていた。

増澤美佳さんは、いま、その小林先生が属していた高エネルギー加速器研究機構というところにいて研究しています。その研究所で准教授をやっています。この研究所は、日本において、おそらく最も数学的才能のある異才たちが集まっているところだと思います。いま現在、そのような分野で活躍している人が、たまたま同級生にいたのです。

彼女は、学校の成績という点では、とりたてて目立つ存在ではありませんでした。むろん数学の成績はずばぬけていましたが。学年で1番といった生徒さんではなく、おそらく身近に接していなければ、彼女の異様な才能には気づかなかった方も多いのではないかと思います。

私としては「進んだ問題」に、それこそ夏休みの期間中、1ヵ月以上四苦八苦して、ようやくたいへんな行の計算式を書き出して、力で解いた問題が、この増澤美佳にかかると段違いに美しい解法で解けるのですね。これには心底驚きました。

私は当時16歳か17歳でしたが、同級生でも、ああこの人は違う、というのはわかるのです。自らは、天才的な才能はなくとも、ひとさまが天才であるということはわかるものなのですね。たとえていいますと、自分の頭の上には、透明なアクリル板みたいなものがのっかっていて、上には行けない。けれども、透明な板の上を突き抜けている人は見えるわけです。おそらくピアノをやっている方、スポーツをやっている方、絵を習っている方など、友達に対して同じような感覚を抱いたことのある人は多いと思います。才能というのはそういうものなのですね。

私たちの属している物理部などは、通常の部活動などは、実質的には何もありません。一生懸命くだらないことを考えてやっていました。たとえば文化祭の季節がやって来て何を考えるかというと、みなさんも同じかもしれませんが、できるだけ素敵な男子学生との出会いの場にしたいとたくらむ(笑)。そう思いながらも、私たちは非常にまじめな発表を準備するのですね。

めちゃくちゃ難しい物理の問題を大学生のお兄さんなどにも相談しながら教えてもらって準備して、もしこの問題を解けた人がいたら、我々物理部全員が、当時流行っていたロックバンドのクイーンや、スージィ・クワトロのエアギターをご披露しましょう、とやったのですね。

「ぜったい解けないから大丈夫だよ」と甘く見ていたのですが、物理部あたりで生意気なことをやっていそうだ、などと聞きつけた男子学生がやって来るわけです。で、解けてしまう……(笑)。そういうとき、私はどうしようと慌てふためくのですが、増澤美佳は堂々と、歌って、エアギターをやってのけました。背が高くて、まことに素敵なお友達でした。


ここで、私はすごく良い経験をしたと思います。つまり、ある先生に憧れて、その人が情熱を傾けて取り組んでいる学問はすごいのだろうなと、数学という対象にまずは憧れた。それから、先生の数学道場みたいな場所で、難しい問題を一緒に解いている仲間が、本当にすごい才能を持っているのに触れる。自分はどうもそういった道では最適ではないということが、友達の信じられないほどの才能を目にすることでわかる。このような体験は、たしかに一つの挫折体験だと思うのですが、友達ということで、素直に自分のなかで引き受けられるのですね。

私の場合、桜蔭学園での生活のなかで、ひとりの先生とひとりの友人の存在によって、ああ、自分は理系ではないのだといった「ふんぎり」がついたわけです。みなさんも進路を決めるまでにいろいろ迷うことがあろうかと思いますが、挫折はしておいたほうがいいです。挫折の過程で、友人を含め、たくさんの同級生がいかに面白い才能を持っているのか、見えてきますよ。

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