加藤陽子
絵・題字 牧野伊三夫
絵・題字 牧野伊三夫
母校・桜蔭学園での講演記録 前編2
一昨年の秋、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の著者・加藤陽子さんが、母校である桜蔭学園を訪れました。そのときの講演録を2回に分けてお届けいたします。掲載にあたり、一部加筆しています。
ひとりの先輩と、歴史との出会い
それでは、なぜ私が歴史学へ進んだのか、そのきっかけとなることをお話ししましょう。
物理部と兼部して社会科部にも入っていたといいましたが、その社会科部で、私はひとりの先輩と出会います。
きっとみなさんにも素敵な先輩、格好いい先輩、嫌な先輩がそれぞれいると思いますが、社会科部の村山先輩は、クールで中性的な女子高の憧れの先輩像とはまったく違う、
やはり文化祭の話になりますが、中学2年生のときの文化祭で、社会科部は「世界恐慌と1930年代のアメリカ」というテーマで発表を行いました。夏休みに各自が分担して準備するのですが、幼くてまだ可愛らしかった私は、先輩から言われたテーマを一生懸命調べて、レポートを書いていくのですね。そうすると、そのレポートを村山先輩は真っ赤に添削して返してくる。
丸ちゃん先生に真っ赤にされるならいいけれど、村山先輩に真っ赤にされるのか……と、私は憤慨しました。それと同時に、この先輩は私より2、3歳上というだけなのに、なぜこれほどに知識があるのだろうと不思議に思ったのです。
先輩と話してみると、「あなた、映画を観たことないの?」などと言われるのですね。大恐慌のときのアメリカをイメージするには映画などどんどん観ればいいのにと言う。そのとき先輩が教えてくれたのが『怒りの葡萄』という、1940年にアメリカのジョン・フォードという有名な監督によってつくられた映画でした。原作はジョン・スタインべックの同名の小説で、ピューリッツァー賞を受賞しています。
1930年代の大恐慌を語るために、少し映画の内容についてもお話ししておきましょう。1929年10月24日の木曜日、ニューヨークのウォール街で株が大暴落したことをきっかけに世界大恐慌が起こります。その大恐慌のあおりを受けて、アメリカ国内では農産物の価格が崩落する。そうなると、中西部の農民たちは、都会向けの農作物が売れないので現金収入がなくなり、小作料も払えずに土地を追い立てられる。
日本においてもアメリカ向けの生糸価格の暴落から、繭価が下落し、農家の負債がいっきょに増えて、娘の身売りなどの社会問題となりましたが、アメリカもまた悲惨でした。
映画に登場する一家は、故郷を捨ててカリフォルニアの西部を目指します。西部で何をやるかといえば、ワイナリーの葡萄を収穫する季節労働者として雇ってもらうのです。
「乳と蜜の流れる
このような映画に着目できる高校生はすごいですね。まさに村山先輩がそうした恐るべき高校一年であったわけです。この映画からは、世界恐慌後のアメリカというものがわかります。世界中の金がニューヨークに集中するなかで、株が崩落したときに何が起こるか。恐慌によって農産物の価格が落ちるときに何が起こるか。農村は豊作で、たくさんの農作物があまっているのに、輸送運賃すら出せず、畑の上でキャベツは腐ってゆく。そして豊富な農作物がそばにあるのにもかかわらず、農民は飢えてゆくのです。
中西部から西部のカリフォルニアへ、アメリカ全土の飢えた農民が10万人移動しました。それまで、1日1ドルで葡萄の収穫に雇われていた人たちは、新たにやって来た、1日50セントで雇われる人たちに追い出されるわけです。当時はアメリカでも労働運動が禁じられていた時代でした。
村山先輩は、こうした映画の話だけではなく、それこそさまざまな本を教えてくれました。本当に進歩がない人間で恐縮ですが、私が現在専門にやっている時代がまさに、この1930年代なのですね。中学2年のときから、やっていることに変化がない。
過去より少しでも前に出て行って
「問う」ことができるか
私は『怒りの葡萄』を観て、なぜこのようなことがアメリカに起こるのか、20世紀の最初の世界大戦である第一次世界大戦で、世界の金の8割を集積した豊かなアメリカで、なぜこの悲惨な状況が避けられなかったのだろうかと考えました。
世界恐慌期のアメリカは、このあと十年間くらいは内向きの孤立主義的な国になります。金余りの国でどうして失業率が改善されないのか。失業率を改善させるには、政府は失業対策事業を国民に与えればよいのですが、そこでインフレを起こさないようにするにはどうすればよいのか。いろいろと解決不能な問いが浮かんできて、中学2年生の頭では、なかなか解答が見つかりませんでした。
ただ、そのときにふと思ったのは、世界的に名前が通った経済学者や政治学者や哲学者などは、まさにこのような大きな危機にさいして、頭をどんどんと使って、いろいろな解決策を導いていった人たちであって、その格闘のゆえに現在の名があるに違いないと想像がついたことでした。経済学も政治学も哲学も、まさに人間が苦労して苦労して、目のまえの現状を変えたいと四苦八苦した跡にほかならないのだ、とあるとき、気づきました。
気がつけたのは、自分なりに、苦しんで苦しんで考え続けたからだと思います。
シンプルで答えを見つけやすい問題や、考えていて楽しいテーマは、世の中にたくさんありますよね。だけれど、私は、理不尽なことがなぜ避けられないのか、考えると苦しくなるようなことを考えてみようかなと思ったのです。これが、私が歴史というものへ心を向けさせられるきっかけでした。
過去に生きた人々は、理不尽なことに何度も泣かされ、何故かと問いながら死んでいったことでしょう。そのようなときに、前と同じ地点で泣き、何故かと問うのではなくて、少しでも前に、一歩前に出て行って、問うことができればよいなぁというのが私の気持ちでした。
みなさん自身、気づいていると思いますが、小さな子ども、あるいは思春期の生徒というのは、実のところ、非常に抽象的なことをずっと考え続けることができる存在なのですね。
人間の生き死には、ひとりひとりの一生を考えると寂しいものです。しかし、ひとつの丸い地球の上で、たくさんの海蛍のような命が輝いては消え、輝いては消え、ということの繰り返しだと考えれば、なんだか寂しくなくなるように、当時は思いました。
今回の大震災でも、明治の三陸沖地震やチリの津波の記憶は、ある人々を救った反面、ある人々を殺しました。今回、三陸沖にやってきた津波の高さが、過去の歴史とその教訓をはるかに超える尋常ならざるものだったからです。過去の地震や津波のデータを考慮して建設された防災センター、そこに逃げれば大丈夫と思って逃げ、命を落とした方も多かったと聞き、暗澹たる思いがしました。
そのようなとき、私たち歴史家は、「歴史に学ぶのは賢人で、自らの体験に学ぶのは愚者である」といった格言をうそぶいていることなどできなくなります。歴史とその教訓を裏切るほどの事態が、人間世界にはやってくることもあるとの感覚、歴史とその教訓自体も誤ることもあるという、たしかな感覚を握りしめて、一歩前に出て行くこと、これが肝腎だと現在の私は考えています。
このように私は、とっても簡単に、「ひとりの先生、ひとりの友人、ひとりの先輩」で、ある種人生を決めたようなところがあります。でも、進路を決めたのは早いわけではなくて、高校2年生の秋に初めて、「脳科学をやりに医学部に行くのはやめよう。やっぱり文系に行くのだ。歴史、もしくは小説を書くのだ」、というようなことを考えました。この時点で初めて、自分がとっている選択科目をガラッと変えて、文系にシフトした。それまではずっと悩んでいました。
おそらく、このように、最後まである意味広いスタンスで真面目に勉強をしていたことが、結果的にいえば、自分が本気で面白いと向かえる道を選べたポイントになったのだろうかと今では思います。
さて、それでは今、私が何をやっているかというと、1930年代の軍事と外交を専門として、戦争について考えています。中学2年生のときの文化祭以来、1930年代にとりつかれているのです(笑)。理不尽なことに対してどうしたらよいか、考えると苦しくなることを考えつづけています。人類の不幸の最大のものは何かというと、やはり戦争なのですね。
それなのに、なぜ理不尽な戦争はなくならないのか。なぜ自分の愛する者を守るために人を殺さねばならないのか。これは戦争の本質といえて、すべてのヒーローものの映画やアニメのテーマですね。『ガンダム』でも『エヴァンゲリオン』でも同じです。
次回は、「歴史は戦争の歴史から始まった」ということを、紀元前5世紀の人間によって書かれた歴史を紹介しながらお話ししたいと思います。
(後編へとつづく)
←前編1へ
[著者紹介]
著者による朝日出版社の本
それでも、日本人は「戦争」を選んだ