國分功一郎
第8回
第一章 暇と退屈の原理論
――ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)
人は楽しいことなど求めていない
退屈する人間は興奮できるものなら何でも求める。それほどまでに退屈はつらく苦しい。ニーチェも言っていた通り、人は退屈に苦しむのだったら、むしろ、苦しさを与えてくれる何かを求める。それにしても、人は快楽など求めてはいないとは、驚くべき事実である。「快楽」という言葉がすこし堅いなら、「楽しみ」と言ってもいいだろう。退屈する人は「どこかに楽しいことがないかな」としばしば口にする。だが、彼は実は楽しいことなど求めていない。彼が求めているのは自分を興奮させてくれる事件である。
これは言い換えれば、快楽や楽しさを求めることがいかに困難かということでもあるだろう。楽しいことを積極的に求めるというのは実は難しいことなのだ。
しかも、人は退屈ゆえに興奮を求めてしまうのだから、こうも言えよう。幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽を求めることができる人である、と。楽しさ、快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件のもとに生活していることよりも、むしろ、そうしたものを心から求めることができることこそが貴重なのだ。なぜなら退屈する人は楽しさや快楽など求めないからである。
有名な聖書の言い回しをもじって、こんな風に言えるだろうか。
――幸いなるかな、快楽を求める人。彼らは事件を求めることがないだろう。
ならば問題は、いかにして楽しみ・快楽を得るかではない。いかにして楽しみ・快楽を求めることができるようになるか、である。
熱意?
ラッセルの思想は〈暇と退屈の倫理学〉という本書の試みにとって重要な参照点である。そこから学ぶべきことは実に多い。ある意味では本書の結論がそこに書かれているといってもいいぐらいである。だが、その点を強調した上で、疑問点についてもここで述べておきたい。
『幸福論』の読後感には何かすっきりとしないものがある。釈然としないものが残る。どういうことかと言うと、ラッセルの結論が単純すぎるのである。
ラッセルが同書の第二部「幸福をもたらすもの」の中で到達する答えは簡単だ。熱意、これである。幸福であるとは、熱意をもった生活を送れることだ――これがラッセルの答えだ。
もう少し詳しく見てみよう。ラッセルによれば、幸福には二種類ある*19。一方の幸福はどんな人間にも得られるものであり、他方は読み書きの出来る人間にしか得られないものだ。両者は地味なものと凝ったもの、動物的なものと精神的なもの、感情的なものと知的なものなどと形容されうる。
*19――The Conquest of Happiness, p.113
『幸福論』、一五七ページ
ラッセルはそれぞれに対して例を掲げている。まず前者の幸福について。ラッセルが紹介するのは彼が個人的に知っていた二人の人物である。『幸福論』、一五七ページ
一人は屈強な肉体をもった、読み書きのできない井戸掘りである。彼は選挙権を得るまで国会というものの存在すら知らなかった。だが彼は「幸福ではちきれそう」だった。彼にとっては、体力と仕事に恵まれ、岩石という障害物に打ち勝って穴を掘ることが幸福である。そしてそれが十分に満たされていた。
もう一人はラッセルが雇っていた庭師である。彼は庭を荒らすウサギと年がら年じゅう戦っていた。庭師は「ウサギのことをまるでロンドン警視庁がボルシェヴィキのことを話すように話す」。彼は終日働いているが喜びの泉は涸れることがない。そんな彼の喜びを供給するのは、「あのウサギのやつら」である(またウサギだ……)。
学のある人間はそんな単純な喜びで満足することはできないと人は言うかも知れない。だがラッセルによれば、最高の教育を受けた人も彼らと同じような喜びを得るのである。ラッセルがあげるのは科学者の例だ。科学はその意義を広く認められている。だから科学者は自分の課題に真っ正面から取り組み、課題を達成することで、大いなる幸福を得ることができる。
ラッセルの結論の問題点
以上は極端な例ではあろう。ラッセルにもそのことは分かっている。とにかく彼が言いたいのは、熱意を持てる活動を得られれば幸福になれるということだ。だからその活動はどのようなものでも構わない。仕事、趣味、更には主義主張を信じること。熱意をもてる活動はたくさん転がっているとラッセルは主張する。したがって、ラッセルが最終的に提案する幸福になるための秘訣は次のようなものになる。
幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味を出来る限り幅広くせよ。そして、あなたの興味をひく人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ*20。
*20――The Conquest of Happiness, p.123
『幸福論』、一七二ページ
これはこれですばらしい結論である。これ自体には誰も反論しないだろう。本書の結論もこのラッセルの結論とそれほど異なったものにはならないかもしれない。『幸福論』、一七二ページ
だが、やはり何かが足りない気がする。退屈している人にこう言ったところでどれほどの効果が期待できるだろう? 彼らは言うだろう。――自分だって、興味をひく人や物に対してできるかぎり友好的に接したいと思っているんだ。けれど、そうした人や物がいったい何なのか、どこにあるのか分からないのだ、と。
また、そうやって右往左往する人びとに対して気晴らしをエサのように与えて生き延びる現代の文化産業の問題はどうなるのか? その中で、ラッセルの解決策はどれほどの意味があるだろうか? それこそ文化産業は、人が「友好的」に接してくれるであろうものをあらかじめ計算してエサを選択するのだ。
東洋諸国の青年、ロシアの青年は幸福である?
それだけではない。ラッセルの結論には非常に重大な欠陥がある。既に序文で軽く触れておいた問題だが、これは非常に重要であるので、もう一度、今度は詳しく述べたい。ラッセルによれば熱意をもった生活をおくれることが幸福である。さて、この観点からみると、今の(一九三〇年段階での)ヨーロッパの青年は不幸に陥りがちである、とラッセルは言う。なぜなら、自分の優れた才能を十分に発揮できるような仕事が見つからないからである。
ヨーロッパでは既に多くのことが成し遂げられている。これから青年たちが苦労して作り上げねばならない新世界はおそらく存在していない。だから、ヨーロッパの青年は不幸に陥りがちなのだ(ニーチェも同じことを指摘していた)。
それに対し、ロシアの青年たちはおそらく世界で最も「幸福」な青年である。なぜなら革命を経た彼らは、今まさに、新しい世界を作ろうとする、その運動の中に生きているからである。
ラッセルは当時の日本の青年たちにも言及している。インドや中国や日本の青年たちは政治状況故にその「幸福」を妨げられているけれども、ヨーロッパの青年たちのように内的な障害が存在しているわけではない。つまり、政治状況が変われば、彼らは、新しい世界を作り上げていく運動を始めることができる。彼らもまた幸福になれる…*21。
*21――The Conquest of Happiness, pp.116-117
『幸福論』、一六二~一六三ページ
熱意こそが幸福の源泉だと言うのだから、このような議論が出てくるのは当然である。『幸福論』、一六二~一六三ページ
しかし、これで本当によいのだろうか? やるべきことが残っている世界に生きている者は幸福で、やるべきことが残っていない世界に生きている者は不幸であると、そんなことでいいのだろうか?
もしも、これから新しい世界を作れるか否かという外的な条件が人の幸福を決定するのであれば、ヨーロッパの青年たちはどうすればよいのだろうか? 彼らが不幸に陥るのは仕方がないことなのだろうか?
当時のロシアや日本の青年について言われていることにも大いに問題がある。新しい世界を建設するという課題が与えられ、それによって熱意を得ること、それは本当に幸福なのだろうか? 熱意を持って取り組むべきミッションを外側から与えられること、それを幸福と言ってよいのだろうか? 熱意さえ持てればいいのだろうか?
人類はこれまで、豊かな社会を築き上げるためにさまざまな活動に取り組んできた。だが、ラッセルの言うとおりならば、「一生懸命に働かなければならなかった時代、あのときが一番幸せだったよね」というありふれた諦念に陥るほかない。豊かになったら今度は、「頑張っていた頃が一番幸せだったよね」などと口にするというのなら、不幸の中に人々を投げ込んでおけばよかろう。その方が「一生懸命に働かなければならない」のだから「幸せ」であろう。
なぜこんなことを言うのか? それはラッセルの答えが不気味な具体案を招き寄せるように思えるからだ。もしも、外側から課題を与えられ、熱意を持てれば幸福になれるというのなら、何でもよいから熱意が持てる課題を適当に与えてやればよいということになるだろう。若者のエネルギーが余っているから、彼らを奮い立たせるような課題を作り上げて、そこでエネルギーを使い切ってもらえばいい、そうなるだろう。たとえば、社会が停滞したら、戦争すればいいということになるだろう。
熱意の落とし穴
熱意はおそらく幸福と関連している。だが、ラッセルはそこから「熱意があればよい」「熱意さえあれば幸せである」という結論に至ってしまった。そこが問題である。実際、ラッセルはこの結論の問題点にも気づいていたように思われる。彼はそうした熱意の傾けられる道楽や趣味が、大半の場合は根本的な幸福の源泉ではなくて、現実からの逃避になっているとも指摘しているからである*22。
*22――The Conquest of Happiness, p.121
『幸福論』、一七〇ページ
しかもラッセルは、本物の熱意とは、忘却を求めない熱意であるとも述べている。彼は「熱意」とみなされる現象が、単に現実から眼をそらす逃避や忘却のための「熱意」でありうる可能性に気づいているのだ*23。『幸福論』、一七〇ページ
*23。
*23――「本物の熱意、つまり、実は忘却を求めているたぐいではない熱意〔Genuine zest, not the sort that is really a search for oblivion〕は、人間の持って生まれた資質の一部である」
The Conquest of Happiness, p.132
『幸福論』、一八七ページ ※強調は引用者
ならばなぜ、「新世界の建設」という課題が与えられているからロシアの青年たちは幸福であるなどと簡単に断言できるのだろうか? 日本の青年たちも政治状況さえ変われば「新世界の建設」を始められるから幸福であるなどと断言できるのだろうか? そうして得られる「幸福」は、単に、逃避や忘却のための熱意かもしれないではないか?The Conquest of Happiness, p.132
『幸福論』、一八七ページ ※強調は引用者
わたしたちには分かるのだ。パスカルを読んだから。人間は部屋にじっとしていられないから熱中できる気晴らしを求める。そして、欲望の向かう対象(ウサギ狩りのウサギ)が本当に欲しいのだと勘違いする。欲望を引き起こした原因(部屋にじっとしていられないこと)はそれとは別だというのに。
「新世界の建設」という外から与えられた課題が、パスカルの言う意味での気晴らしでないとどうして言い切れようか? 「新世界の建設」は高尚な課題であるから、ウサギとは違うのだろうか? いや同じである。高尚であるがゆえに、人は自分がパスカルの言う気晴らしの構造に陥っていることをなかなか認めないだろう。むしろそれは厄介な気晴らしであるとも言えるのだ。
したがって、当時のヨーロッパの青年たちを、当時のロシアや日本の青年たちと比べるという視点そのものが完全にまちがっていると言わねばならない。これは、現代のそれなりに裕福な日本社会を生きる若者を、発展途上国で汗水たらして働く若者たちと比べて、「後者の方が幸せだろう」と言うのに等しい。これはまちがっているどころか、倫理的に問題がある。なぜならそれは不幸への憧れを生み出すからである。
不幸に憧れてはならない。したがって、不幸への憧れを創り出す幸福論はまちがっている。〈暇と退屈の倫理学〉の構想はこの点に大いに注意せねばならない。
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つづく
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