國分功一郎
第9回
第一章 暇と退屈の原理論
――ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?(承前)
スヴェンセン『退屈の小さな哲学』
今度は別の哲学者の退屈論を取り上げよう。本章の冒頭で言及したスヴェンセンの『退屈の小さな哲学』である。この本は世界一五カ国で刊行された話題の本である(日本では邦訳が新書版で二〇〇五年に出版されたが、全く反響はなかった)。スヴェンセンはこの本を専門的にならないように、いわばカジュアルなものとして書いたと言っている。確かに彼の口調は軽い。だが、その内容はほとんど退屈論の百科事典のようなものだ。もし退屈についての参考文献表が欲しいと思えば、この本を読めばよい。参照している文献の量では、本書はスヴェンセンの本にはかなわない。
スヴェンセンの立場は明確である。退屈が人びとの悩み事となったのはロマン主義のせいだ――これが彼の答えである。
ロマン主義とは一八世紀にヨーロッパを中心に現れた思潮を指す。スヴェンセンによれば、それはいまもなお私たちの心を規定している。ロマン主義者は一般に「人生の充実」を求める。しかし、それが何を指しているのかは誰にも分からない。だから退屈してしまう。これが彼の答えだ*24。
*24――Lars Fr. H. Svendsen, Petite philosophie de l’ennui, Fayard, 2003, p.83
スヴェンセン、『退屈の小さな哲学』、前掲書、七九ページ
人生の充実を求めるとは、人生の意味を探すことである。スヴェンセンによれば、前近代社会においては一般に集団的な意味が存在し、それでうまくいっていた。個人の人生の意味を集団があらかじめ準備しており、それを与えてくれたということだ。スヴェンセン、『退屈の小さな哲学』、前掲書、七九ページ
たとえば共同体の中で一人前と認められることは大きな価値を有していた。共同体はある若者を一人前と認めるための儀式や試練(成人の儀式等々)を用意する。個人はそれを乗り越えることに生きる価値を見出す。
あるいは、神が死を迎える以前、信仰がまだ強い価値と意味を保持していた時代を思い浮かべてもいいだろう。そこでは人間の生も死も宗教によって意味づけられていた。
ところが、ロマン主義以降、このような意味体系が崩壊する。生の意味は共同体によって一方的に与えられるような一元的なものではなく、いろいろな方法で探すことができるものになった。言い換えれば、生の意味が共同体的なものから、個人的なものになった*25。
*25――「意味は、いろいろな方法で探すことができ、様々な形で見つけることができる。何か定められたものの中にあることもあれば(たとえば宗教の共同体)、これから実現されるべきもののなかにもある(たとえば階級のない社会)。また、何かの集団であらわされることもあれば、反対に個人の時もある。西洋ではロマン主義以降、実存の意味はもっぱら個人の範疇に入り、個人の計画、個人の信じるものを実現して、初めて意味があることになっている。僕が理解する「個人の意味」は、さしずめ「個人の信条」、または「ロマン主義的」とでも呼びたいところだ」
Petite philosophie de l’ennui, p.42
『退屈の小さな哲学』、三七ページ
そこからロマン主義が生まれる。ロマン主義者は、生の意味は個人が自らの手で獲得すべきだと考える。とはいえ、そんなものが簡単に獲得できるはずはない。それ故、ロマン主義者たる私たち現代人は退屈に苦しむというわけである*26。Petite philosophie de l’ennui, p.42
『退屈の小さな哲学』、三七ページ
*26――前近代においては集団が個人の意味を与えてくれていたというのは、間違いではないだろうが、大雑把にすぎるだろう。スヴェンセンもそれは認めていて、「正しく機能している社会では、人は人生で意味を見出しやすく、機能していない社会ではそうではない」とも言っている(p.43〔三八ページ〕)。前近代においては人は意味の欠如に苦しんだことがなかったとか、近代においては人は意味の欠如に常に苦しんでいるとか、そういうわけではない。近代と言っても一様ではないのであって、集団が意味を与えてくれる社会というのはつい最近まであったし、今もあるだろう。だから、スヴェンセンの主張は、前近代=集団主義的/近代=ロマン主義的という図式に集約してしまうとあまりにも雑で使い物にならない。むしろ、〈ロマン主義と退屈〉という彼の提示したテーマを有意義に利用すべきだろう。
みんなと同じはいや!
一八世紀の啓蒙主義の時代では、人間は理性的存在として平等であり、平等に扱われねばならないと盛んに論じられた。ロマン主義はそれに対する反動である。そこではむしろ人間の不平等が高く掲げられる。個人はそれぞれ違うのであって、理性とかいった言葉で一様に扱ってはならない。つまりロマン主義は、普遍性よりも個性、均質性よりも異質性を重んじる。他人と違っていること。他人と同じでないこと。ロマン主義的人間はそれを求める。今風に言えばこうなるだろうか――「みんなと同じはいや!」「私は他人と同じでありたくない!」「私らしくありたい!」。確かに、個性を重んじるいまの社会は非常にロマン主義的である。
ロマン主義が現れる以前の世界では、経済的な不平等、身分に基づく不平等が社会の全体を覆っていた。したがってそこでは平等の実現こそが至上命題であった。だが、多かれ少なかれ平等が達成されると、こんどは再び不平等が求められたわけだ。
「他人と違っていたい」とは、誰もがいつでも抱いている気持ちのように思われるかもしれないが、それは大変疑わしい。スヴェンセンによれば、この気持ちはロマン主義という起源をもつ。そして、「僕たち現代人はロマン主義者のように考えている」*27。
*27――Petite philosophie de l’ennui, p.83
『退屈の小さな哲学』、八〇ページ
さて、こうなるとスヴェンセンが処方する、退屈への解決策も概ね見当がつく。『退屈の小さな哲学』、八〇ページ
わたしたちはロマン主義という病に冒されて、ありもしない生の意味や生の充実を必死に探し求めており、そのために深い退屈に襲われている*28。だからロマン主義を捨て去ること。彼によれば、それが退屈から逃れる唯一の方法である。「退屈と戦うただ一つの確かな方法は、おそらくロマン主義と決定的に決別し、実存のなかで個人の意味を見つけるのを諦めることだろう」*29。
*28――なお、スヴェンセンも紹介している通り、ロマン主義は世に現れた時点で既にその問題点を明確に指摘されていた。当時からこの思潮には問題があると思われていたのだ。それを明確に述べたのが、ヘーゲル[1770~1831]である。その批判は簡単にまとめればこうなる。ロマン主義者は極端に自分にこだわる。自分ばかり見ている。だから自分以外のものの価値を認められない。その結果、すべては空虚になる。何しろ自分以外のものは無価値なのだから。したがってロマン主義者は無価値な空虚の中でただ一人、この上ない価値を保持するものとなる。それはいわば、自分が作り上げた空虚な王国の中で、我が物顔に振る舞っている暴君のようなものである。しかし、空虚の中で暴君なのだから、彼自らも空虚になっていく他ない。彼が見るもの、体験するもの、すべては無価値なのだ。ならば、彼は空虚に向き合う他ないだろう。こうして当然ながら最終的に退屈に陥る…。
*29――Petite philosophie de l’ennui, p.142
『退屈の小さな哲学』、一三九ページ
*29――Petite philosophie de l’ennui, p.142
『退屈の小さな哲学』、一三九ページ
スヴェンセンの結論の問題点
ラッセルの解決策が、広い関心を持つように心がけ、自分の熱意のもてる対象を見つけるべし、という積極的な解決策であったとすれば、スヴェンセンのそれは、退屈の原因となるロマン主義的な気持ちを捨て去るべし、という消極的な解決策である。そして、消極的な解決策は、解決策でないことがしばしばだ。これでは、退屈してしまうことが問題であるのに、退屈している君が悪いと言い返しているようなものである。それが言い過ぎだとしても、このような解決策には誰もが途方に暮れる他ないだろう。どうやってロマン主義を捨て去ればいいのか? 自分の心のどこに、どのような形でロマン主義があるのかも分からないのに?
そもそも、ロマン主義的な心性を持った人間がそれを捨て去ることはできるのか? スヴェンセンの言うように、それは単に「諦める」ということではないのか? つまり、「お前はいま自分のいる場所で満足しろ」「高望みするな」というメッセージに過ぎないのではないか? してみると、数えきれぬほど多くの固有名を掲げる博学スヴェンセンの書きぶりは、この結論的メッセージの単純さを覆い隠すための衒学的装飾であったのではないかとすら思ってしまう。
それに、退屈とロマン主義というテーマ自体は大変興味深いものだが、スヴェンセンは退屈の問題をそこに集約させすぎている感がある。ロマン主義的退屈はやはり退屈の一つに過ぎない。現代人の中にそれに悩んでいる人もいるだろうが、それだけではない。パスカルの扱った退屈がロマン主義で説明し切れるかと言えば、そうではあるまい。スヴェンセンの著書に、参考にすべき点は多いが、退屈をロマン主義の還元する姿勢はとても支持し得ないし、彼の解決策には全く納得できない。
以上、パスカルの気晴らしに関する議論を出発点にして、暇と退屈についての原理的な考察を試みた。その考察はこの後の本書の議論の中で何度も参照されることになるだろう。
また注目すべき退屈論を二つ取り上げ、それぞれの分析と解決策を検証するとともに、それらの問題点も指摘してみた。ラッセルは積極的な答えを、スヴェンセンは消極的な答えをそれぞれ出していた。どちらにも見るべきところはあり、どちらにも納得できないところがある。
それらを最大限に活用しながら、以下、〈暇と退屈の倫理学〉を探し求めていこう。
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完(第一章の掲載を以上で終了します。第二章以降は2011年9月刊行予定の書籍『暇と退屈の倫理学』をご覧ください|編集部)
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